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『プーと大人になった僕』クリストファーはどうして愛娘を寄宿学校に入れたがる?作品の背景からテーマを読み解く

1949年、ロンドンにあるウィンズロウ商事の旅行鞄部門は売上の低下に頭を悩ませていた。

「何もないところからは何も生まれない」。上司にハッパをかけられた1人の社員は大幅な人員整理をまとめるため、休日を返上する。家族とサセックスに帰省する予定も台無しだ。男の名前はクリストファー・ロビン。かつて、100エーカーの森でくまのプーや仲間たちと遊んでいた、あの少年が成長した姿である。

映画『プーと大人になった僕』2018)の原題は「Christopher Robin」。つまり、本作は中年を迎えたクリストファーの現実と心象にスポットをあてた内容になっている。しかし、いくらなんでも性格が変わり果ててしまったクリストファーに、多くの『くまのプーさん』ファンはショックを受けたのではないだろうか。本作のクリストファーは仕事人間で、ユーモアや思いやりを忘れてしまったように見えるからだ。
クリストファーが変貌してしまった理由は、作品の中でほのめかされている。もちろん「大人になって純真を失った」という解釈も成り立つのだが、戦後のイギリス社会にあてはめて考えてみると、より作品の深さが見えてくるだろう。

クリストファーが入学した「寄宿学校」って?

本作のファーストシーンは、少年時代のクリストファーがプーたちとお別れパーティーをしているところである。クリストファーはロンドンの寄宿学校に入学することになった。だから、プーたちと100エーカーの森で楽しく遊んでいた時期は終わりを告げるのだ。

 「寄宿学校に入っても休みがあったら帰ってくればいいじゃない」と思う観客もいるだろう。クリストファーとプーの別離の大きさを理解するためには、クリストファーの行き先をただの「寄宿学校」ではなく「パブリック・スクール」として考えなくてはいけない。パブリック・スクールとは、14世紀のイギリスで設立され、以降、数を増やしていく私立の「エリート養成学校」である。教育内容は単なる学問だけに留まらない。生徒たちは支配階級としての礼儀作法や精神性を学び、人格を矯正されていく。

パブリック・スクールの主な生徒は中流階級の男子たちだ。彼らは英国紳士としての心構えを叩き込まれる過程で、労働階級への差別意識を植えつけられていく。しかも生徒同士の競争心は歓迎され、イジメや体罰が助長される傾向すらあったという(『プーと大人になった僕』でも、教室内では一瞬だけ体罰をにおわせる描写があった)。

こうした学校教育は、パブリック・スクールの兄弟校となった大学で完成し、若者たちは社会に送り出されていく。学校側が提唱する望ましい進路は、政界や法曹界、あるいは軍隊だ。つまり、国家の中枢に近い場所へと就ける人間のみが「成功例」とされる世界である。クリストファーがいたのも、そんな学校なのだろうと推測される。

徹底的に現実主義で、他人を蹴落とすことを正義とする場所において、クリストファーがプーとの思い出に浸れる時間はあっただろうか。サセックスの森でクマや子ブタやトラと楽しくおしゃべりしていた記憶を、なつかしく思い出せただろうか。作中、プーや仲間たちの造形はまるでぬいぐるみのようだ。このデザインには賛否両論があるだろう。しかし、プーをはじめとした森の動物たちが、クリストファーが置き去りにした「少年時代の無垢さ」の象徴であるのだとしたら、これは的確な造形だといえる。作劇としてプーたちは、エリート教育施設では思い出すのも憚られるほど非現実的な存在でなくてはいけなかったのだから。

戦争体験を経て笑わなくなったクリストファー

父親の死も、クリストファーの心を早熟させたのだろう。そして戦争体験によって、クリストファーは少年性と決定的に袂を分かったのだと考えられる。時代設定からして、クリストファーが招集されたのは第二次世界大戦後期のヨーロッパである。過酷な戦場で、クリストファーがどのように残酷な現実と対峙してきたのか。こればかりは作中のわずかな描写から想像するしかない。ただし、少なくともプーや100エーカーの森がたたえていた平穏さからは対極にある場所だったのは間違いないだろう。かくして負傷兵として帰還したクリストファーは、妻から「笑わなくなった」と言われるほど陰気な堅物になっていく。 

中盤、クリストファーは数十年ぶりに100エーカーの森へと足を踏み入れる。しかし、そこには霧がかかった陰鬱な景色が広がっていた。おまけに、大きな穴へと落ちてしまったクリストファーには頭上から豪雨まで降り注ぐ。比喩表現をあてはめるなら、「森」とは登場人物の心そのものである(たとえば『マクベス』のおどろおどろしい森は主人公の迷いと穢れを意味するし、村上春樹作品の悩める登場人物たちは往々にして暗い森の奥へと向かっていくのだ)。プーと一緒に他愛もない遊びをし、「何もない」時間を楽しむには、クリストファーはいろいろなことを見すぎたし知りすぎてしまったのである。

クリストファーは「落伍者」か

さて、大人になったクリストファーの任務である人員整理についても触れておこう。除隊後、一般企業に就職したクリストファーだが、パブリック・スクールの理念を考えれば決して彼は「成功者」の部類には入らない。軍隊では功績を挙げられず、支配者になる教育を受けてきたはずなのに企業の中間管理職止まり。そう、クリストファーは他のパブリック・スクール出身者から「落伍者」と呼ばれてもおかしくない経歴を歩んでいる。

クリストファーが娘のマデリンをどうしても寄宿学校に入学させたいのは、自身に挫折感があるからではないだろうか。妻に言った「娘が将来いい暮らしをできるように」とは、クリストファーの本心なのだろう。しかし、逆にいえば「今の暮らしでは娘が幸せになれない」と告げているようなものだ。

人員整理を上司から迫られるクリストファーは、本当の意味で「支配側」に立てるかどうかの岐路にいるといえる。あるいは、本当に娘を寄宿学校に入学させることで、クリストファーは自身の甘さと決別するのだろう。まるで、寄宿学校に入学することになり、プーたちとお別れしたあの日のように。悩めるクリストファーが数十年ぶりにプーと再会したのは、偶然ではないのだ。

台詞の対比でわかる作品のテーマ

昔とまったく変わらないプーは、あわただしく生きるクリストファーに誰もが知っている名言を投げかける。「僕はいつも“何もしない”をしているよ」と。そして、この台詞はクリストファーが上司に言われ、自身の口癖になってしまった「何もないところからは何も生まれない」と真逆の意味を持つ。

正直、2つの台詞を比べたときにより分かりやすく、影響力があるのは「何もないところからは何も生まれない」のほうだろう。しかし、こうした言葉の本質はどうだろうか。高圧的な支配層の吐く言葉が心に響くと錯覚してしまいがちなのは、「他人にきびしい内容を大声で叫んでいるだけ」だからである。内容の薄い自己啓発本に限って、ショッキングなタイトルがついていがちなのと同じ構造だ。人々を焦らせ、「自分はこのままではダメだ」と思わせ、奴隷のように支配層へとかしずかせてしまう。その結果、雇い主のために全身全霊を捧げ始めるのだが、言うまでもなく、それで得をするのは雇い主だけである。本人に見返りがあるわけではない。

一方、「僕はいつも“何もしない”をしている」という台詞は分かりづらいうえ、いくら考えてみても答えに辿り着けそうにない。『プーと大人になった僕』で、クリストファーは自分なりにこの言葉を解釈するが、それが絶対的な正解というわけでもないだろう。
もっとも、本質を突いた言葉とはそういうものではないか。他人を扇動するためではなく自分の実感を述べているだけだから、聞いた人がすぐにピンとこないのも当然だ。だからこそ、じっくりと言葉に向き合い続けることができるし、いつまで経っても完璧に理解できないほどの深みがある。かと思えば、感覚で「こういうことなんだな」としっくりくる瞬間もあり、つまりは、クリストファーにとってのプーそのものだ。

『プーと大人になった僕』は、クリストファーの生きる「効率性や生産性を重視する社会」と、プーの暮らす「他人にも自分にもやさしい世界」を対比させる。どうして2018年にこの映画が作られたのか、その意義はあまりにも大きい。我々の周りには何人ものクリストファー・ロビンがいる。大人になることと、思いやりを捨てることを混同してしまった人々だ。だが、それは成長ではない。単なる環境への順応である。痛みを抱えつつ大人になったすべての人々こそ、本作のプーの言葉にじっくりと耳を傾けてほしい。

映画『プーと大人になった僕』は2018年9月14日(金)より全国の映画館にて公開中

『プーと大人になった僕』公式サイト:https://www.disney.co.jp/movie/pooh-boku.html

[参考資料]
山内乾史「イギリスのエリート教育の動向 -変わりゆくパブリック・スクール-」

Writer

石塚 就一
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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