名作とされる古い映画を観て「面白くない」と感じるのはごく自然な反応だ

下記はアメリカン・フィルム・インスティチュートが2007年に選出したアメリカ映画のオールタイムベスト100から上位10件を抜粋したものです。
- 市民ケーン(1941)
- ゴッドファーザー(1972)
- カサブランカ(1942)
- レイジング・ブル(1980)
- 雨に唄えば(1952)
- 風と共に去りぬ(1939)
- アラビアのロレンス(1962)
- シンドラーのリスト(1993)
- めまい(1958)
- オズの魔法使(1939)
注釈すると、アメリカン・フィルム・インスティチュート(通称AFI)は、1967年に設立された「映画芸術の遺産を保護し前進させること」を目的とする権威ある機関です。
トップ10を一見すると即座にわかることですが、古い映画ばかりです。最も新しい『レイジング・ブル』ですら1980年。トップ10中7本が1960年代より前の作品というえらく偏った選出です。
このAFIのランキングに限らず、古い映画は分厚い映画関連書籍を読んでいるとよく名前が出てきます。そして、ほぼ例外なく絶賛されています。熱心な映画ファンならばこういった系統のランキングを見てクラシック映画に手を付けてみようと思うのは自然な行動でしょう。
そして、現代の映画に慣れ切った若い映画ファンであれば、例えば『素晴らしき哉、人生!』(1946,20位にランクイン)を見てこう思ったはずです。
「面白くない」と。
自分の感性がが成熟していないのではないかと疑心暗鬼になったかもしれませんが、「面白くない」と思う映画ファンの心理は全く自然なものです。
結論から先に言ってしまいますが、古い映画、特に1960年代の半ば以前の名作と言われているアメリカ映画は現代基準で言うとはっきり言って退屈です。
全部が全部ではありませんが、これらの映画にはそれなりの確率で共通した特徴が見られます。ある程度の暴論、主観が含まれてしまいますが、主観の含まれない評論など存在し得ないと思います。
今回はクラシック映画を見て面白いと思えない理由について書いていきたいと思います。
注・本稿ではクラシック映画=1960年代中盤以前のアメリカ映画という定義で話を進めます。
ヨーロッパ映画や日本映画は含めません。私は古い日本映画はむしろ大好きです。
画に面白味が無い、テンポが悪い
見出しがそのまま結論になってしまっていますが、保守的なアメリカのクラシック映画は画に面白味が無くテンポが悪いです。
大きく寄るでも引くでもない中途半端なサイズのミドルショットがダラダラ続く。非常に乱暴な括りであることを承知で書きますが、これがクラシック映画の画的な特徴です。
例えば、先ほども名前を挙げた『素晴らしき哉、人生!』は典型的な古いハリウッド映画です。会話シーンの多くが人物を横に並べた古典的な「横並び」の構図で、人物の膝から上を捉えたミドルショットが延々と続く。途中で人物の切り返しが少し入る場合もありますが、基本的にはほぼ横並びのミドルショットの一転押しで、あくまでもそれがメインです。
これは恐らく、映画が舞台から影響を受けたことによるものだと思います。
舞台演劇において、人物が複数出てくるシーンは人物を横並びに配置するのが普通です。舞台の場合、横並びにした人物を積極的に動かすことで視覚的なリズムを作ります。それ故に初期の映画は人物横並びワンカットでワンシーンを構成するのが普通でした。
その最もわかりやすい例が世界初の「筋のある映画」と言われている『月世界旅行』(1902)です。『月世界旅行』は世界初の「筋があって」「複数のシーンで構成された」映画で、映画史におけるエポックメイキングな作品です。
ですが、その演出は全編が横並びのワンシーンワンカットであり、現代基準で言うとこれは無策とも思えるほどに牧歌的です。
こういった黎明の映画、或いは舞台の影響なのかクラシック映画には長めの横並びのミドルショットがよく使われています。
こういった典型的なクラシック作品ともっと後の時代のものを比較するといかに映画が洗練されたかがよくわかります。
例えば『欲望という名の電車』(1951,AFIのランキングで47位にランクイン)と『ゴッドファーザー PART II』(1974)を比べてみましょう。『ゴッドファーザー PART II』はかなり昔の映画ですが、今見ても十分に刺激的。対する『欲望という名の電車』は保守的な典型的クラシック映画です。
なぜこの2本を取りげたかというと、どちらにも「3人の人物が室内で会話しているシーン」があるためです。
『欲望という名の電車』は原作が舞台劇であるため、会話シーンが非常に多いです。
そこからブランチ(ヴィヴィアン・リー)、スタンリー(マーロン・ブランド)、ステラ(キム・ハンター)が食事をしながら会話している中盤のシーンを見てみます。
このシーンは話している人物のバストアップ、話を聞いている二人の2ショット、登場人物全員が収まったマスターショットで主に構成されています。
カット数が少なく、1カットは長め、カメラは人物が動くときにフォローする程度。時折、人物のシングルショットも混ざりますが、全体が見えるマスターショットが多いため全体像はよくわかるのですが、個々の部分にフォーカスせず、かといって大きく引くわけでもない、言い方は悪いですが中途半端な画です。映画を見ているというよりも舞台の録画を見ているような気分になってきます。
対して『ゴッドファーザー PART II』の中盤、ヴィトー(ロバート・デ・ニーロ)、クレメンザ(ブルーノ・カービー)、テッシオ(ジョン・アプレア)の会話のシーンを見てみます。
このシーンは話している人物、話を聞いている人物のシングルショットと全体像が見えるマスターショットで構成しています。カットはめまぐるしくならない程度に小気味よく切り替わり、話している人物、聞いている人物の表情を交互に捉えます。マスターショットのミドルショットでは、不自然にならない程度に人物を動かし画面に動きをつけています。シンプルですがとても魅せる演出だと思います。
こういったクラシック映画によくみられる画造りは現代のあるものとよく似ています。それは日本のテレビドラマです。全てがそうというわけではありませんが、日本のテレビドラマもこのような寄るでもなければ大きく引くわけでもない半端な画が非常に多いです。半端なサイズの画はどこに何があるかはっきりわかるので見やすく、分かりやすいですが半端な画は面白味がありません。ただし、現代日本のドラマはもっと細かくカットを割るので、日本のテレビドラマの方がクラシック映画よりもテンポは良いでしょう。
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