名作とされる古い映画を観て「面白くない」と感じるのはごく自然な反応だ

こういった典型的なクラシック映画の演出で、ドラマ以上に見ていてきついのがアクションです。
『007 ゴールドフィンガー』(1964)は007シリーズ初期の代表作ですが、冒頭のアクションを見るとやはり時代遅れ感を感じてしまいます。現代のアクションはアイレベルのポジションだけでなく、俯瞰や煽りのショットを混ぜながら両者の表情を見せつつリズミカルにというのが主流ですが、『007 ゴールドフィンガー』のアクションは横並びの2ショット引きが主体で、現代の洗練されたアクションを見た後だとどうしても緩く感じてしまいます。
描写がぬるい、嘘くさい
前項をかなり長く書きましたが、これはもう見出しそのままです。
例として『失われた週末』(1945)と『クレイジーハート』(2009)を比べてみましょう。なぜこの2本を選んだかというと、それは両者がともにアルコール中毒者を主人公としているからです。特に『失われた週末』はその先駆けと言われている作品です。しかし、この2本は中毒の描写の仕方に大きな差があります。
『失われた週末』の中毒描写は間接的でソフトです。アルコール中毒の主人公ドン(レイ・ミランド)は終始酒を求めて彷徨います。
酒が欲しいあまりメイドの給料を横取り、あまつさえ盗みに走ろうとさえします。しかし、飲酒という行為自体はあくまで暈した形で描かれています。
年齢性レイティングシステムが無い時代、倫理的、教育的で無い描写に映画界は大変不寛容でした。過激な描写や発言は検閲対象になってしまうため、古い映画は『失われた週末』に限らずショッキングな描写がかなり暈した表現で描かれています。
対してかなり現代寄りの映画である『クレイジーハート』はアルコール中毒の苦しみを容赦なく描いています。
バッド(ジェフ・ブリッジス)はアル中が原因で子供を危険に晒して責められ、半裸の状態で酩酊して前後不覚になり、酒を飲んで交通事故を起こし、と容赦がありません。
こういった生々しい描写が当たり前の近年の映画と比べると『失われた週末』のアル中描写は温く、嘘くさく感じてしまいます。
また、クラシック映画は細部の描写に神経が行き届いていない場合があります。すごく分かりやすい例だと『カサブランカ』(1942)で主人公のリック(ハンフリー・ボガード)は酒場を経営していますが、酒場でピアノを弾いているサム(ドーリー・ウィルソン)の手元を見ると明らかに素振りだけでピアノを弾いていません。きっとこの程度のリアリティでも許される時代だったのでしょう。牧歌的とも言えますが、現代の基準に照らし合わせると正直「雑」という印象が残ってしまいます。
クラシック映画の果たした役割
以上のようにクラシック映画についてだいぶネガティブなことを書いてしまいましたが、これらが無価値かというと決してそんなことはありません。
クリストファー・ノーランは『ダンケルク』(2017)を演出する際、サイレント映画の技法を研究したそうです。モンタージュの手法はほぼすべてがD・W・グリフィスかセルゲイ・エイゼンシュテインが発明したもののバリエーションです。
また、たしかに古い映画は温いし緩いですが、そういった牧歌的な雰囲気を好む映画ファンもいるのかもしれません。私も『雨に唄えば』(1952)と『或る夜の出来事』(1934)は牧歌的な楽しいエンターテイメントだと思います。これらの作品は大好きです。
最後に、貶してばかりではフェアでないので、本稿で定義づけたクラシック映画の中でクラシック映画が苦手な私でも楽しめた映画を挙げて今回は筆を擱こうと思います。
- 『雨に唄えば』(1952)
前述の通りの牧歌的で楽しいエンターテイメント。古いミュージカル映画は独特の味わいがありませす。
- 『アラバマ物語』(1962)
シリアスな上質のサスペンスで社会派ドラマ。現代にも通じるセンスだと思います。
- 『十二人の怒れる男』(1957)
舞台的な作りのシリアスなサスペンス。監督のシドニー・ルメットはこの後も長きにわたって活躍し、1970年代には傑作を連発する。
- 『或る夜の出来事』(1934)
演出は典型的なクラシック映画ですが、脚本が最上の出来。普遍的な楽しい映画で、スクリューボールコメディーのお手本と言える作品です。
- 『白雪姫』(1937)
ディズニーのアニメ映画。戦前のものとは思えないクオリティー。ディズニー初期作品の『蒸気船ウィリー』(1928)も味があって素晴らしい。