Menu
(0)

Search

『君の名前で僕を呼んで』に見る「限られた永遠」 ─ 関連作から分析する欧州映画へのオマージュ

君の名前で僕を呼んで
©Frenesy, La Cinefacture

また見つけたぞ!

──なにを? ──永遠を。

それは、太陽と混じり合う海だ。

「地獄の季節」アルチュール・ランボー著、小林秀雄訳、岩波文庫、1970

詩人ランボーの代表作「地獄の季節」の引用から始まるジャン・リュック・ゴダール監督作『気狂いピエロ』(1965)は、カップルの絶望的な逃避行を描く大傑作である。ゴダール映画はしばし「難解」「スノッブ」と評されるが、それでも『気狂いピエロ』の海の青、雲の白、そして車の赤だけは誰が見ても目に焼きついて離れない。画面が鮮やかすぎるほどに「永遠」を刻むほど、逆説的に永遠などどこにもないというこの世の摂理が強調されていく。映画とはいわば、「限られた永遠」を留めるための装置なのだ。

『君の名前で僕を呼んで』(2017)も見事なまでに「限られた永遠」を切り取ってみせた青春映画である。舞台は1983年、北イタリアの避暑地。17歳のエリオは両親ともに別荘で夏を過ごしにやって来た。ほどなくして、父の教え子である24歳のオリヴァーも合流する。2人は惹かれあうが、初めて抱く男性への恋心に戸惑い、なかなか素直になれない。それでも、2人の距離は徐々に縮まっていき、やがて告白のときが訪れる。同時に、夏の終わりも迫っていた──。

この、あまりにも純粋すぎるラブストーリーから、これまで映画が描いてきた「限られた永遠」を解説していこうと思う。

君の名前で僕を呼んで
©Frenesy, La Cinefacture

脚色・プロデューサー・のジェームズ・アイヴォリーの集大成

本作には、随所でヨーロッパ映画への憧憬が散りばめられてもいる。脚色・プロデューサーのジェームズ・アイヴォリーはカリフォルニア出身のアメリカ人だが、両親はヨーロッパにルーツを持っていた。そして、自らもルーツを辿るように、監督としてヨーロッパを舞台にした映画を数多く撮っていく。アイヴォリーの名声を高めたのは、EM・フォースターやカズオ・イシグロといったイギリス系作家原作の映画群だった。『眺めのいい部屋』(1986)『モーリス』(1987)『ハワーズ・エンド』(1992)『日の名残り』(1993)などは、名作として語り継がれている。『君の名前で僕を呼んで』は、ヨーロッパ的な自然美、LGBT、知識層の交流など、アイヴォリーがこれまでモチーフに取り上げてきた要素がつまった集大成的な一作となっている。

こうしたアイヴォリーの生い立ちともっともシンクロするキャラクターがオリヴァーだろう。オリヴァーは劇中、周囲から何度も「アメリカ人」と呼ばれるように、やや異質な人格の持主として描かれている。常に自信満々で強引な性格は、女性たちからは「男らしい」と映る一方、内気なエリオからは敬遠されていた。しかし、インドアなエリオとは対照的に、オリヴァーはイタリアの街にもすぐなじんで休暇を満喫し始める。おそらく、もっとも舞台の街を愛し、楽しんでいたのはオリヴァーだ。だが、それは彼が「よそ者」の視点しか持てない証でもある。オリヴァーの立ち位置は、映画界におけるアイヴォリーのそれによく似ている。ヨーロッパを愛し、接近しながらも「当事者」にはなれない疎外感。それがアイヴォリー作品の、従順なまでの「ヨーロッパ愛」につながっていったのではないか。

本作と類似点のあるヨーロッパ映画たち

『君の名前で僕を呼んで』にもっともよく似ている構造の過去作品は、ジャック・ロジェ監督『アデュー・フィリピーヌ』(1960)だろう。若く美しい2人の少女に引かれたフランス人、ミシェルが、やはりイタリアで休暇を過ごす物語だ。コルシカの美しい風景を切り取っていく映像は見事だし、ゆったりと夏の解放感を描いていく演出も『君の名前で僕を呼んで』に通じる。しかし、一番重なり合う部分は、楽しい時間に「終わり」が設けられている点である。

軍隊に入ったミシェルは休暇が終わればアルジェリアに派兵される。1960年、アルジェリアの独立戦争は過熱しており、戦局は激しくなっていた。ミシェルには生きて返ってこられる保障がない。体だけでなく、心も損なわれてしまう可能性があるだろう。ミシェルにとって少女たちと過ごす夏は最後の幸せだ。限られた永遠。だからこそ、他愛もない戯れと会話が繰り返される『アデュー・フィリピーヌ』は、胸が張り裂けるほどのセンチメンタリズムもたたえている。

この構造は、夏が終わればエリオとオリヴァーは離れ離れになってしまう『君の名前で僕を呼んで』にもあてはまる。もちろん、エリオとオリヴァーは夏が終わっても死ぬわけではない。しかし、また同じように燃え上がる気持ちで再会できないかもしれない。そう、自分の名前で相手を呼ぶほどに、「ひとつになる」ことはもうないだろう。彼らの永遠にもまた限りがあるのだ。

LGBT映画に範囲を広げると、『太陽がいっぱい』(1960)『ベニスに死す』(1971)などとの共通点も連想される。『太陽がいっぱい』劇中では直接的に描かれなかったが、主人公のリプリーが大富豪の御曹司・フィリップを殺害し、彼になりすました動機には「愛する人と同一化したい」との願いがあった。エリオとオリヴァーは愛で結ばれたが、リプリーはフィリップを手に入れるために彼を憎むしかなくなったのだ。原作を同じとする映画『リプリー』(1999)では、よりストレートにリプリーのゆがんだ愛憎が描かれている。

『君の名前で僕を呼んで』のワンシーンは『ベニスに死す』の引用でもある。病の老作曲家が絶世の美少年・タジオに翻弄される物語だが、タジオが挑発的に歩くシーンは、『君の名前で僕を呼んで』でエリオたちが湖へと向かうシーンと重なる。この時点で、エリオとオリヴァーはお互いの想いを打ち明けあっていない。しかし、歩くエリオを見つめるのは誰なのか。『ベニスに死す』と比較すると、冷静ならざる眼差しがあったのだと分かるだろう。

そのほか、今作(1975)が挙げられる。また、ルカ・グァダニーノ監督は『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』(1995)のように登場人物のその後を映画で撮り続けたいとも語っている。『ビフォア・サンライズ』三部作も、アメリカ人監督・リチャード・リンクレイターからヨーロッパ映画へのオマージュを捧げた作品だった。そして、繰り返し登場する、食卓での会話シーンからは『緑の光線』(1986)のようなエリック・ロメール監督作品を連想する人もいるだろう。

アメリカ映画界からヨーロッパ映画へのラブレター

『君の名前で僕を呼んで』はアメリカ・ブラジル・フランス・イタリアの合同製作である。しかし、実際はフランスやイタリアの旧作からの影響が非常に強い。監督がイタリア人だから、と言われればそれまでである。しかし、アメリカの脚本家、プロデューサーが名前を連ねてアメリカ人俳優が主役を務めた映画で、ここまでヨーロッパ・テイストが濃くなるのは稀なケースではないだろうか。

『君の名前で僕を呼んで』にはアメリカ映画界が夢見た「ヨーロッパ映画」の切なさ、美しさ、残酷さがあふれている。かつて、ゴダールやトリュフォーの映画に憧れたアメリカの若き作家たちが「アメリカン・ニューシネマ」の流れを生み出したように、今作にはヨーロッパ映画の記憶が刺しゅうのように織り込まれているのだ。手が届きそうで届かない、似ているようでまったく違う場所。今作で描かれる「限りある永遠」は、アメリカ映画界からヨーロッパ映画へのラブレターに他ならない。

Writer

石塚 就一
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

Comment

Ranking

Daily

Weekly

Monthly