『君の名前で僕を呼んで』に見る「限られた永遠」 ─ 関連作から分析する欧州映画へのオマージュ

LGBT映画に範囲を広げると、『太陽がいっぱい』(1960)『ベニスに死す』(1971)などとの共通点も連想される。『太陽がいっぱい』劇中では直接的に描かれなかったが、主人公のリプリーが大富豪の御曹司・フィリップを殺害し、彼になりすました動機には「愛する人と同一化したい」との願いがあった。エリオとオリヴァーは愛で結ばれたが、リプリーはフィリップを手に入れるために彼を憎むしかなくなったのだ。原作を同じとする映画『リプリー』(1999)では、よりストレートにリプリーのゆがんだ愛憎が描かれている。
『君の名前で僕を呼んで』のワンシーンは『ベニスに死す』の引用でもある。病の老作曲家が絶世の美少年・タジオに翻弄される物語だが、タジオが挑発的に歩くシーンは、『君の名前で僕を呼んで』でエリオたちが湖へと向かうシーンと重なる。この時点で、エリオとオリヴァーはお互いの想いを打ち明けあっていない。しかし、歩くエリオを見つめるのは誰なのか。『ベニスに死す』と比較すると、冷静ならざる眼差しがあったのだと分かるだろう。
そのほか、今作(1975)が挙げられる。また、ルカ・グァダニーノ監督は『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』(1995)のように登場人物のその後を映画で撮り続けたいとも語っている。『ビフォア・サンライズ』三部作も、アメリカ人監督・リチャード・リンクレイターからヨーロッパ映画へのオマージュを捧げた作品だった。そして、繰り返し登場する、食卓での会話シーンからは『緑の光線』(1986)のようなエリック・ロメール監督作品を連想する人もいるだろう。
アメリカ映画界からヨーロッパ映画へのラブレター
『君の名前で僕を呼んで』はアメリカ・ブラジル・フランス・イタリアの合同製作である。しかし、実際はフランスやイタリアの旧作からの影響が非常に強い。監督がイタリア人だから、と言われればそれまでである。しかし、アメリカの脚本家、プロデューサーが名前を連ねてアメリカ人俳優が主役を務めた映画で、ここまでヨーロッパ・テイストが濃くなるのは稀なケースではないだろうか。
『君の名前で僕を呼んで』にはアメリカ映画界が夢見た「ヨーロッパ映画」の切なさ、美しさ、残酷さがあふれている。かつて、ゴダールやトリュフォーの映画に憧れたアメリカの若き作家たちが「アメリカン・ニューシネマ」の流れを生み出したように、今作にはヨーロッパ映画の記憶が刺しゅうのように織り込まれているのだ。手が届きそうで届かない、似ているようでまったく違う場所。今作で描かれる「限りある永遠」は、アメリカ映画界からヨーロッパ映画へのラブレターに他ならない。