『クリード 炎の宿敵』アドニスとドラゴ親子の因縁を読み解く ─『ロッキー4/炎の友情』と冷戦の傷跡

アポロの死はアメリカの敗北
こうしたアメリカとソ連の価値観の軋轢が如実に表れたのは、アポロとドラゴが臨んだ記者会見だろう。ドラゴと闘うことになったアポロは、記者会見でソ連チームに喧嘩を売る。ソ連チームから敗北を予告されたことに怒ったのだ。(※4)しかし、会見終了後、すぐにセコンドのロッキーに「まあまあの演技だったろ」とうそぶく。アポロにとってボクシングは格闘技であると同時にエンタテインメントだ。大衆を盛り上げ、注目されてナンボである。
それに対して、ドラゴは会見中一言も話さない。妻で元水泳選手のルドミラ(ブリジット・ニールセン)に質疑応答を任せている。ドラゴにとってボクシングは格闘技でもエンタテインメントでもない。国家に命じられた指令をこなすための「戦争」である。何しろ、ドラゴはそのためだけに生み出された存在なのだから。後半には、ソ連チームによるドラゴのドーピングまで描写されている。おそらく、ルドミラとの結婚も優秀な遺伝子同士を組み合わせるため、政府の意向に従ったものだったのだろう。(※5)
試合当日でも、アポロとドラゴの対比は続く。アポロにとってドラゴ戦は大切な5年ぶりの復帰戦だ。自分の力を誇示するため、彼はとてつもなく豪華な演出でリングに入場してきた。星条旗をあしらった衣装に身を包み、女性ダンサーたちと一緒に踊る。会場で歌っているのはなんと、「ファンクの帝王」ジェームス・ブラウンだ。曲は「Living in America」。アメリカのショー精神が凝縮されたかのようなパフォーマンスに、観客たちは興奮のるつぼと化す。(※6)そんな中、ドラゴが戸惑いの表情を浮かべているのが印象的だ。まるで「こいつらは何を勘違いしているんだ?」と言わんばかりに。
アポロとドラゴの試合はあまりにも有名なので詳細は省く。しかし、アポロの死という決着に、会場は静まりかえった。それは、エンタテインメントの国、アメリカがソ連の国家意識に敗北した瞬間だった。
(※4)アドニスもイワンと会見でもめるシーンがある。このときアドニスが「チビ」と呼ばれるのは、かつてロッキーがソ連からチビ扱いされたことの引用。
(※5)その後ルドミラは夫と息子を見捨て、ロシア政府で順調に出世した。
(※6)『クリード 炎の宿敵』でアドニス入場シーンに選ばれたのはヒップホップだった。第2戦では妻のビアンカが歌唱してくれている。
ロッキーの闘争本能が目を覚ます
ほどなくしてロッキーはドラゴとの試合を決意する。会場はモスクワ、アメリカ人のロッキーからすれば完全なるアウェイだ。(※7)しかも、アマチュア・ボクサーであるドラゴと試合をするために、ロッキーはチャンピオンの座すらも返還する。そこまでして闘う意味がどこにある?セレブな生活と平和が惜しくはないのか?引きとめるエイドリアンにロッキーは言う。
物なんていくらあっても仕方がない
俺は戦士なんだ
自分を変えずにやり抜くことだけが大切だ
殺されたとしても俺は負けない
『ロッキー』でも、彼はエイドリアンに同じことを言っていた。そのとき、ロッキーはチャンピオンとして絶頂期だったアポロとの試合を控えていた。当時、ロッキーは自分がアポロに勝てるとは思っていなかったはずだ。しかし、最後まで倒れなければ、自分で自分のことを認めてやれる。そう、ロッキーはアポロの敵討ちのためでも、アメリカの誇りのためでもない。自分に嘘をつきたくないからモスクワに行くのである。家族と豊かさに囲まれて、失いかけていたロッキーの闘争本能が目を覚ました。
極寒のロシア、ロッキーはポーリーとアポロの元トレーナー、デューク(トニー・バートン)と共に古びた山小屋へと向かう。(※7)平穏な毎日で丸くなった牙を、ロッキーは大自然の中のトレーニングで研ぎ澄ませていく。一方、ドラゴはサポートチームの元、巨大な施設で最新鋭の器具を使い調整を行っていた。(※8)あくまで自分自身の恐怖と向き合うロッキーとは対照的だ。ドラゴはどこまでも国のためだけにボクシングを続けている。
(※7)デュークの息子もアドニスのトレーナーを務めていた。
(※8)ロッキーがアドニスの修行場所に選んだのは、メキシコ近辺と思わしき不良ボクサーたちのたまり場「虎の穴」。
冷戦下のソ連でアメリカ人が試合に挑むということ
試合当日。会場では、アポロ戦と間逆の構図が繰り広げられる。満員の観客はロッキーに激しいブーイングを、ドラゴには歓声を贈った。ゲスト席には書記長の姿まである。(明らかにモデルはゴルバチョフだ)
こうした光景は決して大げさな描写ではない。冷戦下のアメリカとソ連は国際的なスポーツの舞台で、必ずと言っていいほどトラブルを起こしていた。1972年のミュンヘン五輪のバスケットボールで、アメリカはソ連に敗れ銀メダルに甘んじた。しかし、アメリカは判定が不服だとして表彰式をボイコットしている。また、1980年のレークプラシッド五輪のアイスホッケーでは、最強と謳われたソ連チームを負かしたアメリカチームは、帰国後、英雄扱いを受けた。そして同年のモスクワ五輪で、アメリカはソ連の軍事方針に反対して大会そのものをボイコットした。それほど両国間の敵対心は強かったし、ソ連でアメリカ人がスポーツの試合を行うなど、リンチを受けに行くようなものだったのだ。