「映画評論家」は「評論」されなくていいのだろうか

映画評論はかつては映画雑誌や新聞、週刊誌、テレビなど限られたマス媒体に掲載されるものでした。
2000年代以降、インターネットの普及、発展によりネットで「無料」で評論が読めるようになりいきおい、映画評論を目にする機会は増えました。
私は現在30代の前半ですが、私が学生だった頃、まだウェブ媒体の需要は今ほど多くなくウェブライターになるのはそれほど簡単なことではありませんでした。
特に出版業界にコネがあったわけでもない私がこのように商業媒体で記事を書くようになったきっかけは一般応募、選考を経た結果です。
私が初めてウェブで記事を書いたのはほんの2年程前のことで、それまではウェブで書き物をするなど想像もつきませんでした。
少々脱線してしまいましたが、映画評がネットで大量に読める現在、映画評論に触れる機会は非常に多くなっています。
私は以前、人の評論を読むことにそんなに熱心ではありませんでしたが、情報の溢れかえる現代において情報をシャットアウトするのは難しく、特に意識していなくても映画評は勝手に視覚に飛び込んで来てしまいます。
そして人の書いた評論(プロ、アマ問わず)に一つの傾向があることに気づきました。
今回は少々危険なラインに突っ込んでいきますが誤解を恐れず進んでいこうと思います。
「映画」評論家である必要性
世間一般に出回っている評論の特徴、それは下記のようなフレーズに代表されます。
「よく練られた脚本」
「素晴らしい演技」
誤解の無いように言っておきたいのですが、演技や脚本がどうでもいいわけでありません。
どちらも大事だと思います。
ですが、演技と脚本がすべてではないのもまた事実です。
これは以前の記事に書いたのですが、映画は観客に提供される前に様々なプロセスを経ています。
演技も脚本もあくまで素材の一つであり、我々観客の前に辿り着くまでカメラとマイクを経由し、編集室でのポスプロを経て提供されます。
また、同じ役者が客の前で芝居をする脚本のある見世物でも舞台と違い、映画の演技はリアルタイムで目の前で繰り広げられているものではありません。
監督がどんな画を撮ってどんな風につなぎ合わせるかを考えた上でバラバラに撮ったものを脚本上の時間軸に直して提供したものです。
この時、監督が繋ぎ方や絵のつくり方を誤ると、演技と脚本という素材は台無しになりますし、監督が上手くやれば50点の素材が90点まで加点される場合もあります。
(勿論、録音や撮影が商業作品に耐えうる技術水準をクリアしているのが必要最低条件です。)
『ハドソン川の奇跡』(2016)は上質な素材を演出が更なる高みに引きあげた例だと思います。
御大クリント・イーストウッドは保守的なスタイルの監督です。彼の演出の特徴を指摘するのは大変難しく、とにかく「正攻法」としか言いようがありません。しかし、それでいて『ハドソン川の奇跡』は大変に魅せる演出をしている映画です。寄りと引きはバランスよく、カメラは程よく動きがあり、編集は歯切れよく、と本当にごく当たり前のことしかやっていないのですが、その当たり前のことが神業と言えるレベルで結実しています。
映画監督にはいろいろなスタイルの人が居ますが、正攻法の監督の中でイーストウッドに迫るレベルの監督はいないのではないかと思います。
以上のようなことは、残念ながら私の知る限り言及している評論家がいませんでした。
世間の映画評論家が演技と脚本のことしか書かない理由、それは単純に知らないからだと思います。
実際、私は個人的に何人かの映画ライターと話をしたことがありますが、彼らはカチンコが何のために必要なのかすら知らない程に映像に無知でした。
私はインディーズですが、そこそこ予算の大きなものの制作にかかわったことがあり、映画がどんなプロセスを経て出来上がるのかはなんとなく想像がつきます。それ故に、上記のような素晴らしい演出を見るとそのことについて書きたくてたまらなくなります。
残念ながら私は技術に暗いため、技術のことが書けません。
ですが、仮に私がレンズワークや三点照明理論や色調補正のことをよく知っていたらそれについて書きたくてたまらなくなっていたに違いありません。
誤解を恐れず書きますが、演技と脚本のことは見ていれば誰でもわかります。それに演技と脚本だけならそれは舞台も同じです。これでは演劇評論家と映画評論家を分けるべきスキルの差別ができません。
さらにプロの評論家となるとタイアップなどの大人の事情が絡んできます。そうすると「これは酷い」と思っても簡単に貶すことができません。