『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』今度のジェイク・ギレンホールは果たして狂っているのか?
2017年2月18日公開、ジェイク・ギレンホール主演の『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』 を観てきた。
主人公は妻を亡くした男。妻が死んでから自分は彼女にあまりにも向き合っていなかったことに気づく。周りの人々との交流を交えながら、喪失、破壊を経て再生する主人公を描いた物語である。
この『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』。タイトルからするとなんだか詩的な、夫婦の愛について描いた映画・・・という印象を受けるが全くそんな情緒的な物語ではない。映画としては終始淡々とした印象で、まるで小説をめくっているかのように感じられた。
しかしこのジェイク・ギレンホール演じるデイヴィスのキャラクターは、私たちの心の中に少しずつ存在していると思う。だから彼が狂ってしまっている、とは言いにくいように感じるのだ。今回は『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』から、人間の感情や自己について考えてみたい。
人間の感情って一体
妻が死んでも涙を流さなかった主人公。彼は妻に対してだけでなく、全てに対して感情が薄いように感じる。「みんな、何を考えてるの?何も感じない俺がヤバイの?」とジェイク・ギレンホールの表情が物語っている。
そんなこんなで現象を”理解”することで生きてきたデイヴィス。しかしそうもしていられなくなるの映画の始まりである。
自分自身と向き合うこと
そう、自分のことって1番よく分からなかったりするものなのだ。周りで起こっていることや他人の様子は分かっても、自分に置き換えるとなんだか分からなくなってしまう。
この映画でデイヴィスは身の回りのものをこっぱみじんに破壊していく。その行動は妻が亡くなり”一度全て壊して、夫婦生活を見直す”というよりは”自分自身のために”破壊に出た、という印象をうける。
この映画のように身の回りをきれいに壊し、ゼロにしてしまえば自分が見えてくるものなのかもしれない。もちろんデイヴィスのように家まで破壊するのは後が困ってしまうが、例えば少しSNSをやめてみたり、いらないものを処分してみたり。
”何かを壊す”ということも、”自分自身の再スタート” に繋がるのではないかということを教えてくれる。デイヴィスが破壊しまくるシーンに、妙な爽快感を覚える方もいるはずだ。
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