『ドクター・ストレンジ』のマルチバースは実際に学者たちの間で議論されている ─ 宇宙論研究者の見地から
映画『ドクター・ストレンジ』が公開されてから1週間が経過した現在(2017年2月5日)、その映像表現に衝撃を受ける観客が増えている。米アカデミー賞では視覚効果賞にノミネートされており、最新のVFX技術を結集した映像の新体験をもたらした作品として注目されている。
しかし、ドクター・ストレンジは技術的な側面にとどまらず、我々の思想的な側面も大きく変化させる作品でもある。特に、多元宇宙(マルチバース)という超科学的な概念が映画化されたことのインパクトは大きい。映画ファンであると同時に宇宙研究も行う筆者にとって、ドクター・ストレンジの映画界への登場は大変衝撃的だった。
この記事では、ドクター・ストレンジがもたらすマルチバースという思想的にインパクトの大きい概念について、筆者の専門である宇宙科学的な観点から語ろうと思う。
この記事には、映画『ドクター・ストレンジ』のネタバレ内容が含まれています。
ドクター・ストレンジの「異次元」さ
ドクター・ストレンジがアイアンマンやキャプテン・アメリカといった他のアメコミヒーローたちと決定的に違うのは、科学ではなく魔術で戦う点だ。
例えば、アイアンマンはアークリアクターで生み出される熱エネルギーでスーツを駆動するし、キャプテン・アメリカが用いるシールドは特殊金属ヴィブラニウムと鉄の合金で鋳造されている。あるいは、アントマンはピム博士により自身の体を自在に伸縮させることができるスーツを駆使して戦う。こうしたヒーローたちの活躍の裏には、常に科学的な根拠が関わっている(もちろん、現実的に実現できるわけではないが)。
しかし、ドクター・ストレンジは全く異なる。彼はむしろ、科学など全く歯に立たない脅威から世界を守るヒーローである。例えば、魔法陣を作り時空に穴を開け、空間的に移動する。ビルを力学法則に逆らって捻じ曲げる。極め付けに、胸元にぶら下げたアガモットの目で時間を操りながら、タイムループを起こしてドルマムゥを倒す。科学的にはハチャメチャな倒し方だ。1つの時間軸で物事を捉える科学的思考に馴染んでいる我々にとって、これらを理解することは大変難しい。そのようなレベルにまで敵が存在しているとは、何とも恐ろしいことである。
何よりも気になったのは、ストレンジが往来を繰り返す「暗黒次元(ダーク・ディメンション)」、「ミラー次元(ミラー・ディメンション)」、「アストラル次元」という言葉で表される、現実世界と並行して存在するとされる異次元の存在だ。こうした異次元は、マルチバースという概念で捉えることができる。
(噂によると、どうやらドクター・ストレンジ演じるカンバーバッチは暗黒次元にいる自分自身と闘っていたらしい。理屈であれこれ説明しようと思ったが、良い考えが浮かばなかった。やっぱり理解できない。ストレンジと同じく、いっそのことアストラル次元に飛ばされる必要があるのかもしれない。)
マルチバースの面白さ
マルチバースは英語で”Multiverse”というスペルで、日本語ではしばしば多元宇宙と訳される。1895年に『ユリシーズ』などの著作で有名なアメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズにより作られた造語である。Universeにおける”Uni”は唯一無二であることを意味するのに対して、”Multi”は多数を表す。つまり、マルチバースは文字通り宇宙がたくさんあることを意味する。
もともと、Universeという言葉は、古代ギリシャにおいて、物質、時空、エネルギー全てを包含した「全てのものの集合」という概念として登場した。宇宙は全ての物質やエネルギーを包含する1つの概念であり、それゆえ宇宙=Universeと言われている。Universeという概念は西洋文明の勃興の中で絶えず受け継がれていき、ニュートンやデカルトの登場により科学の世界にも浸透した。
それに対して、マルチバースでは多世界解釈や並行宇宙(パラレルワールド)という概念を導入することで、物質やエネルギーが存在する異次元を指している。多元宇宙は、人やものが同じ時間に異なる宇宙に存在できるという魅力があるため、SFやオカルトで好んで用いられる概念であり、科学とは対置されてきた。
ところが最近では、マルチバースは科学の根幹ともいうべき理論物理学においても議論されている。これは筆者の専門分野に深く関わるところである。
筆者は宇宙論(Cosmology)という分野を専門とする研究者だ。宇宙論とは、宇宙の成り立ちから現在に至るまでの進化の過程を、物理法則の観点で解明する学問である。天文観測の技術が飛躍的に進歩した現在では、宇宙の進化はビッグバン宇宙論にまとめられた。ビッグバン宇宙論は学校の教科書に載っているので、ご存知の方も多いだろう。

しかし、この宇宙像は現在の天文観測により観測可能な領域を調べた結果に基づいた理解に限定されている。それゆえ我々はまだ、観測できる宇宙のさらに向こう側にまで広がる宇宙の一端を調べたに過ぎないかもしれない。宇宙論研究者にとって観測できる宇宙は1つしかないため、マルチバースの存在を科学的に実証することは困難である。
そのような中、マサチューセッツ工科大学の宇宙論研究の第一人者であるマックス・テグマーク氏が2016年に著書 『数学的な宇宙究極の実在の姿を求めて』 を上梓した。この本の中で、テグマーク氏はマルチバースを4つのレベルに分類している。
- レベルI :観測可能な宇宙の向こう側
- レベルⅡ:異なる物理定数の宇宙
- レベルIII:量子力学における多世界解釈
- レベルⅣ:数学的に記述される究極集合
この分類については形式的なもので、宇宙論研究者の中で今も議論が続いており、共通見解に至っているわけではない(事実、筆者自身納得がいく理解に達していない)。試みに分類してみると、ストレンジが行き来する世界は全て並行世界となっているので、レベルⅢ宇宙ということになるのだろうか。
マーベル・シネマティック・マルチバース?
劇中では、再起不能な重傷を負ったスティーブン・ストレンジが、唯一の治療法を求めて、東洋の辺境ネパールのカトマンドゥにあるカマー・タージを訪れる。身長の低い東洋人の群集の中を西洋人が進む様子は、ストレンジに象徴される西洋哲学の虚しさを感じさせた。さらに、エンシェント・ワンに己の傲慢さを諭されるシーンでは、西洋哲学が音を立ててぼろぼろと崩れているような感覚を味あわせてくれた。
THE RIVERに集う映画好きの方々は、映画を原体験として人生の一部としているのだろう。ヒーロー映画を観るということは、そのヒーローに憧れ、ヒーローになりたいと願うものだ。ドクター・ストレンジは異次元と我々の宇宙を行き来することができる、いわばマルチバースのヒーロー。21世紀を生きる私たちは、マルチバースの存在を徐々に理解する必要があるのかもしれない。
ドクター・ストレンジの登場により、マーベル・シネマティック・ユニバースではなく、マーベル・シネマティック・マルチバースとなる日が来るのかもしれない。