『ドクター・ストレンジ』と『沈黙 -サイレンス-』に通ずる!西洋人の傲慢をえぐった哲学家レヴィ=ストロースのお話

「Wi-Fiのパスワードだ。未開人じゃないぞ。」

映画『ドクター・ストレンジ』。カトマンズ、カマー・タージと呼ばれるエンシェント・ワンの隠れた寺院で、部屋に通されたストレンジはモルドに案内される。”shamballa”と書かれたメモを渡されたストレンジが思わず「マントラか?」と尋ねると、モルドは冒頭の言葉を返す。『ドクター・ストレンジ』の中でも、特にユニークなシーンで、劇場でも笑いがこぼれる。


このシーンには、西洋人の東洋に対する潜在的傲慢と、それにしっぺ返しをする皮肉が込められている。“shamballa”というWi-Fiパスワードは、たしかに「お前、狙っただろ!」とツッコミたくなるようなものだが(それにしても、誰が設定したんだろう?エンシェント・ワンは機械に疎そうだし、ウォンにそんなユーモアもなさそうだから、やっぱりモルドかな?)、もしもあの場所がニューヨークの洗練されたホテルだったら、ストレンジも「Wi-Fiのパスワードかな?」と思ったかもしれない。それを「マントラか?」と口にしたのには、スティーヴン・ストレンジという西洋人の持つ東洋へのステレオタイプが見え隠れする。

ストレンジは、エンシェント・ワンの『初回レッスン』でもその傲慢ぶりを見せている。エンシェント・ワンが嬉しそうに見せる東洋由来の医療書物を見て、ストレンジはふざけているのかと卑下する。その前の場面で、東京に3Dプリンタを用いた最新の技術があるとは口にしていたが、カマー・タージの場面では、自分たちこそ最新で正しい医学を探求しており、エンシェント・ワンが見せた鍼灸のような東洋術は後進的でまるで役に立たないというように。

その後、エンシェント・ワンの魔術の真髄を身をもって体験すると「教えてくれ」と請うようになるわけだ。

自分たちは真理に向かって前進し続ける優れた人種であると潜在的に考える西洋人の傲慢については、同じく2017年1月日本公開となったマーティン・スコセッシ監督作『沈黙 -サイレンス-』でも主題のひとつとして描かれている。

『沈黙 -サイレンス-』では、イエズス会の高名な神学者クリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本で厳しい弾圧に遭い、ついに棄教したという報せがローマにもたらされるところから始まる。アンドリュー・ガーフィールド演じるロドリゴとアダム・ドライバー演じるガルペは「そんなはずはない」と、師の棄教の真相を確かめるべく日本に潜り込む。

この作品では、キリスト教の教えを通じて日本人を救おうとする西洋の宣教師とそれに命を捧げて従う日本人、そしてキリスト教を激しく弾圧する幕府、さらにその弾圧に耐えながら「なぜ弱き我々が苦しむのか、なぜ我々がこんなに苦しいのに神は沈黙しておられるのか」と苦悩するロドリゴの視点が描かれる。

筆者は、今作におけるマーティン・スコセッシ監督の来日記者会見を取材させていただいたが、その際に監督はこのように語っていた。

拷問は、確かに暴力ではありました。しかし、西洋からやってきた宣教師らも一種の暴力を持ち込んでいたのです。つまり、”あなたたちの真実や文化は無であり、我々こそが真実である”という西洋思想をアジアに持ち込んだことこそ、一種の暴力と言えるでしょう。

スコセッシ監督によれば、宣教師らには“傲慢さ”があり、幕府は彼らの傲慢さを解きほぐす他なかったと言う。

『ドクター・ストレンジ』のストレンジと『沈黙 -サイレンス-』の宣教師たち。どちらも東洋の地に西洋的な傲慢さを持って踏み入れている。スコセッシ監督の言うように、彼らは”我々こそが真実”と思い込んでおり、東洋を始めとした地域は”未開の地”であり、遅れている人々だと考えていた。今は未開人たちであっても、自分たち西洋人の教えと助けをもってすればいずれ自分たちと同じ文明を築けるものなのだと。

しかし、Wi-Fiパスワードを渡したモルドが「我々は未開人じゃないぞ」と毒づいたように、この考えはやはり西洋人の傲慢さや思い上がりに過ぎない。

歴史を積み重ね、真理を目指す西洋思想

伝統的な西洋思想は、「人知を超えた真理」を追い求める形而上学的な概念があったが、カントの登場によって「人間にとっての真理」を求める現実的な方向に転換していく。続いてヘーゲルは、真理とは議論を絶えず続ける「弁証法」によって見つかるものだと指摘した。つまり、否定され、議論を重ねることによりブラッシュアップされていくという考え方だ。そうしたサイクルを繰り返していけば、最終的には究極の真理…つまり人類にとっての唯一のゴールにたどり着くというものである。

ここで注目すべきなのは、真理の否定と再定義といったサイクルの繰り返しは、連続的な歴史を伴うところである。明日の真理は今日の真理より優れたものになっていき、最終的には「究極の理想社会」が完成するだろうという考えだ。

この「歴史の連続性」こそが、伝統的な西洋思想の礎のひとつになっている。あなたは、よく洋画や海外ドラマで、登場人物が過去の出来事を言及する時にスラスラと年号を言うのを不思議に思うことがないだろうか。たとえば「あれは1993年、俺がトラックの運転手をしているときに…」みたいな言い方だ。日本人の感覚からすると、こういった場面ではなんとなく「あれは俺が25歳のとき」とか「大学を出て3年くらいのとき」といった言い方をしがちだが、歴史の連続性を重視する西洋人は、過去の出来事を年表として大切にする考えがある。墓石にも誕生年と没年をしっかり刻むのは、こういった理由かもしれない。

宗教学について筆者は素人なのだが、「人類は、歴史の繰り返しによって究極の真理に近づいていくものであり、現世はその過程である」というのには、キリスト教の考え方にも一致するものがあるように思う。死後に天国で神の恩恵を得るためにイエスを信じ、罪を告白する。そもそも人間はみな罪人なので、死後の救済を求めなければならない。つまり、現世…私達の人生とは、全てその過程であるという思想だ。

『沈黙 -サイレンス-』で、ガルペが日本人の夫婦の赤子に洗礼を行うと、夫婦は「ありがとうございます、これでこの子はパライソ(天国)にいるのですね」と喜ぶ。当時の日本人のキリスト教勘違いを具現化したシーンだ。ガルペが「え、今はまだいないよ。でもいずれ行くよ」と真面目に説くと、夫婦はその考え方がいまいちピンとこないようで困惑する。(その後、ガルペがカイロ・レンばりにイラつくシーンは必見。)

このように、西洋思想において、究極の世界とは「今ここ」ではなく、かならず未来にあるものであった。だから、彼らの時間観念は過去から未来へ続く直線なのである。より良い世界とは、未来、または死後にあり、現在はそこへ向かう過程に過ぎない。つまり過去の世界とは、相対的に今より劣るものであると考えられてきた。

そのため、西洋人にとってアジアやアフリカといった国は、西洋より劣る「かわいそうな国の人たち」だとされてきたのである。なぜなら、西洋こそ最も先進的な文明・技術を有しており、それ以外の国は相対的に「過去」だと考えられていたからだ。歴史の連続性を重視する西洋人によれば、未開の地の人たちも一歩一歩階段を登っていけば、いずれ民主主義や産業革命を経て自分たち西洋のような優れた文明を築けると考えた。こういった考え方が常識だった当時のキリスト教宣教師たちは、東洋の果ての日本とかいう謎の島国の人々に、自分たちの進んだ考え方を広めるべくしてやって来たというわけである。

これこそ、『沈黙 -サイレンス-』のスコセッシ監督が言う「西洋人による傲慢という暴力」の正体だ。

しかし、ドクター・ストレンジが馬鹿げていると決め込んでいた東洋の魔術の世界に、とんでもない深遠さがあることを体験させられたように、西洋の一面的な近代技術至上主義に異を唱えたのが、レヴィ=ストロースという哲学家である。

© FAMOUS PEOPLE http://www.thefamouspeople.com/profiles/claude-lvi-strauss-6502.php

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文明に優劣はない

1908年にベルギーに生まれ、2009年まで100歳の人生を全うしたレヴィ=ストロースは、社会人類学者としてブラジルのサンパウロ大学の教授としての仕事を得る。レヴィは、当時興味を持っていた民俗学のフィールドワークに挑戦できると思い、ブラジルに渡る。長期休暇の折を見て、カデュヴェオ族、ボロロ族、ナムビクワラ族、トゥピ=カワイブ族などといった、アマゾン川などに暮らすゴリゴリの「未開人」たちと生活を共にしながら、彼ら ─西洋文明の影響を全く受けていない未知の民族─ の生態を探った。

人は、その時代の科学で説明がつかないものは、「神」や「魔法」という言葉でまとめていた。アマゾンに暮らす未開人たちの暮らしも、迷信と妄想に満ちた非文明的で原始的な暮らしをしているのだろうというのが多くの人たちの先入観だった。しかし、そこでレヴィ=ストロースが目の当たりにしたのは、西洋文明とは全く異なるかたちで、しかしながら合理的で深遠な社会システムが成立していた様であった。

レヴィ=ストロースはこれら民族との生活をもとに、原始的で野蛮とされていた先住民たちが実際には極めて精緻で論理的な生活を営んでいることを科学的に証明した。未開人たちの文化も、西洋文化と変わらずに高度であると主張したのである。そして、西洋人は文明の最先端を歩んでいるのだという見方を、「傲慢な思い込み」だと喝破したのだ。

同じ時代にサルトル(1905~1980)というフランスのカリスマ的哲学家がおり、レヴィとも親交があった。サルトルは「人類の歴史には、目指すべき唯一の真理がある」という思想を問いていた(実存主義)。しかし、レヴィは「世界中にはさまざまな文化や価値観を持った社会があり、優劣をつけることはできない。全人類が目指すべき唯一の真理は存在しない」と反論し、サルトルとバトったのだ。

『沈黙』ロドリゴとドクター・ストレンジ

『沈黙 -サイレンス-』冒頭、ロドリゴ、ガルペ、ヴァリニャーノ師の三人が真っ白な石畳を歩く姿の頭上ショットは、西洋の清く洗練された文明を物語っているようだった。対して、ロドリゴとガルペがたどり着いた日本の村での藁にくるまるような営みは、まさに未開的だった。原作でロドリゴは、しばしば自分の苦境をイエスと重ね合わせており、「あぁ、私も今あの方(=イエス)のように…」とか「この状況、あのお方だったら…」とか、「私は今、この日本の人たちの救いになっているのだ…」と、あらゆるシチュエーションで正当化・神格化を試みていた。つまり、イエスが常に弱い人々と共にあったように、自分も未開のかわいそうな日本人と共にある救世主なのだと陶酔しきっていたのである。

沈黙

もちろん、隠れ切支丹らにとってロドリゴは実際にありがたい存在であったはずだ。しかし井上ら幕府側は、宗教を女性に例え「なぜわざわざ他国の女を嫁に貰う必要があるか」と批判したり、今度は日本を沼に例え「沼に苗を植えても、根は腐って育たない」と諭す。日本には日本独自の合理的な文化が発達しており、それはキリスト教を変容させるほど強力なものであった。先に渡ったフェレイラはそれを知ってしまったのである。レヴィ=ストロースによれば、そのどちらも等しく尊いものであり、片方が一方を押さえつけることはできず、優劣もつけられないものなのだ。

これは、『ドクター・ストレンジ』でエンシェント・ワンが説いたマルチ・バース(多元宇宙)の概念にも通ずる。この世界の見方は一つではない。あらゆる価値観やあらゆる正義が並行的に成り立っており、今あなたが見ている世界はそのほんの一部でしかないのだと。

筆者がここで言うマルチ・バースとは、何もマーベル・ユニバースのパラレルワールド的なものに限らない。私たちの生活の中にもマルチ・バースはたしかに存在する。職場や学校、バイト先で、自分と異なる価値観を持つ人がいたとしても、それはその人が暮らす”バース”なのである。比較は結構だが、優劣は付けられない。もしも「アイツはどうせ」なんて卑下することがあるのなら、もうあなたはドクター・ストレンジを「上から目線の医者」と笑えないのである。

レヴィ=ストロースが主張し、ロドリゴが苦悩し、ドクター・ストレンジが学んだように、私たちの世界にはたくさんの異なる価値観が存在する。生活の中でショックを受けることがあったとしても、ミラー・ディメンションに引きこもることのないように。

『ドクター・ストレンジ』配給/ウォルト・ディズニー・ジャパン ©2017Marvel
『沈黙 -サイレンス-』配給:KADOKAWA (C)2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.
Eyecatch Image:© FAMOUS PEOPLE  http://www.thefamouspeople.com/profiles/claude-lvi-strauss-6502.php

About the author

THE RIVER編集長。ライター、メディアの運営や映画などのプロモーション企画を行っています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。

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