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『ダンケルク』や『シン・ゴジラ』は登場人物の内面を描いていない?2作品が象徴する映画の分岐点とは

「主役以外の結論を描かない」既存の戦争映画と『ダンケルク』の違い

クリストファー・ノーラン監督最新作『ダンケルク』(2017)がヒットしている。1940年のダンケルク海岸における連合軍の撤退作戦を描いた本作は、プレスでほとんど絶賛評を集めている。しかし、ノーランの過去作品がそうだったように、根強い批判の声も混ざっている。以下は映画評論家・プロデューサーの江戸木純氏が99日にツイートした内容だ。 

『ダンケルク』といえばベルモンド主演+アンリ・ベルヌイユ監督版に衝撃を受けた世代なので、確かに映像は凄いしスクリーンで観る価値はあるものの、物語がほとんどないノーラン版はいろいろと物足りなかった。ベルヌイユの『ダンケルク』を見直したら、やはりノーランに無いものがいろいろあった。

「物語がほとんどない」という批判には思うところがある観客もいるだろう。しかし、実際に『ダンケルク』の物語を見ていない人に説明するのは難しい。上映時間の大半は戦場の「描写」のみに費やされているからだ。そもそも物語とは何なのかと考えると、人間描写ではないかと思う。『ダンケルク』の戦場描写は徹底しているが、大半の登場人物は人格も生い立ちも描かれないままである。それを「物語がほとんどない」とするのは妥当な意見だろう。

しかし、江戸木氏には欠点と映った部分を美点ととらえる評論もある。The Week誌のLili Loofbourowは『ダンケルク』を既存の戦争映画と比較して「より芸術作品に近い」と述べている。

「観客は(既存の戦争映画において)混沌と絶望を感じるだろうが(それは、主役に感情移入しながら、哀れな若者たちの犠牲が実際にどんな風だったかに驚愕するためだ)、しかし、そこでは主役にとっての結論が用意される傾向がある。(主役がいなくても)世界の物語は続くし、その物語は喪失や崩壊した絆に対してもっと詩的に語るはずなのだ。

『ダンケルク』はこの種の映画の根幹を取り除いたバージョンである。」

『ダンケルク』が登場人物の内面を描かないのは、作り手が至らないからではない。実際の戦争が主観的な結論で片付けられない出来事だからである。唯一のメロドラマ要素を担う、マーク・ライランス演じる小型船の船長だけは詳しい生い立ちや行動原理が描写されていた。しかし、戦場のパートに限定すれば『ダンケルク』を戦争映画にありがちな感傷や興奮から切り離した映画にしようという作り手の意図は明確に読み取れる。

興味深いことに、Loofbourowが「既存の戦争映画が主役以外の結論を描いていない」というのは、多くの観客がまさに既存の戦争映画を愛する理由にあたる。『戦争のはらわた』(1977)にせよ、『最前線物語』(1980)にせよ、強烈な魅力を放つ主人公なくして傑作とは呼ばれなかっただろう。リアルな戦場描写だけがフォーカスされがちな『プライベート・ライアン』(1998)でさえ、小隊の兵士たちの個性は描き分けられていた。江戸木氏とLoofbourowの評論軸は真逆だが、自分は両者とも間違った意見を書いていないように思う。

『シン・ゴジラ』評と『ダンケルク』評の共通点

『ダンケルク』同様、登場人物の描写について賛否両論を巻き起こした近作が『シン・ゴジラ』である。映画秘宝誌の20173月号では、『シン・ゴジラ』が同誌の2016年ベスト映画と、トホホ(ワースト)5位に選ばれている。映画芸術誌では2016年ワーストの3位に選ばれたが、キネマ旬報ではベストテンの2位。極めて評価が混乱している本作の争点になったのは、「登場人物を描けているかどうか」だった。

シナリオスクールに通ったことがある人なら分かるだろう。現在の映画脚本を学ぶ場では第一に「人間を描くこと」を教え込まれる。良い脚本とは人間がリアルに深く描けている脚本を指す。脚本家志望者は作品を書くたび、教育者から何度も登場人物の行動原理について追求される。ところが、『シン・ゴジラ』に登場する山のようなキャラクターたちは、行動原理など掘り下げられない。「日本を守るため」に「ゴジラという脅威に対処する」ことが当たり前の職業意識として描かれるのだ。たとえば、登場人物とゴジラの因縁を深く描写したオリジナル『ゴジラ』(1954)との違いは明らかだろう。ベテラン脚本家の荒井晴彦氏が編集長を務める映画芸術が『シン・ゴジラ』を評価しないのは頷ける。

しかし、『ダンケルク』と同様に、ここでも「人物の内面を描かない脚本」を肯定する人々がいる。『「シン・ゴジラ」をどう観るか』(2016/河出書房新社編集部)から春日太一氏の文章を引用しよう。

観客が求めていないのに、それをやってしまう。これが近年のメジャーの日本映画の大きな特徴でした。作品のテーマに合おうが合うまいが、とにかく家族愛の描写や恋愛設定をやたら入れてくる。そのせいでテンポが緩くなって退屈さが生じ、せっかく大スペクタクルのアクションやポリティカルサスペンスを描いても間延びしてくる。

(P18.『シン・ゴジラ』は岡本喜八の弔い合戦である) 

春日氏の文章は筆者の個人的な感覚とも一致する。もっといえば、日本映画に限らずハリウッドの超大作を見ていても同じ感想を持つことは多々ある。春日氏は原因を脚本家の育成システムにあると書く。

観客にとって退屈かどうか、面白いかどうかより「描いているかどうか」というアリバイが大事。そんな観客不在の自己満足のドラマツルギーがまかり通ってきたのです。

(P19.『シン・ゴジラ』は岡本喜八の弔い合戦である)

辛辣な意見だが、筆者も特に否定はしない。映画人を「育成しよう」と考えた時点で、成績を決めるための「基準」が生まれる。そのため、映像学科やシナリオスクールでは「人間を描く」ことが基準になってしまうのだろう。『シン・ゴジラ』の脚本は総監督であり、アニメーター出身の庵野秀明が手がけている。だからこそ、脚本家のイデオロギーから外れた目線で執筆できたのではないか。

高橋ヨシキ氏も「新悪魔が憐れむ歌 美人薄命」(2017/洋泉社)にて『シン・ゴジラ』評を書いている。その中で、最近の脚本家たちの傾向が変化していると、映画学校の教員の言葉を引用しながら実感する。

「近年、奇妙なことが起きている。学生に映画のプロット(あらすじ)を書いて提出するように言っても〈設定〉だけを書いてくる者が多い。登場人物についてもそれは同様で、行動によって性格を示す代わりに、人物の〈設定〉を事細かに決めたがるんだ」

誤解のないように書いておくと、これを引用したのは『シン・ゴジラ』を貶めるためではない。ことの是非は別として、エンターテインメントの定型が姿を変えつつあるという現象が実際にあり、『シン・ゴジラ』も映画学校の学生も、それにビビッドに反応したのだろう。

(P216. 信じられないような奇妙な映画『シン・ゴジラ』について) 

春日氏の評論と重なる内容である。おそらく、10年前までは「設定」だけで登場人物を描写するのは単に脚本家の「未熟さ」の表れとされていただろう。しかし、現に『シン・ゴジラ』も『ダンケルク』も登場人物には名前と役職が与えられているだけなのに大ヒットし、評価も得ている。高橋氏の言うように、是非はともかくとして映画に新しい方本論が生まれているのである。

現代の娯楽映画から人間描写が希薄になった理由

では、どうして「人間の内面を描かない」脚本が同時代性を獲得し始めたのか。正確には、潤沢な予算がかかった娯楽映画に限定される現象ではあるのだが。その理由をノーランの作家性に絡め、「時代がノーランに追いついた」とするのは簡単である。ノーランは『メメント』(2000)以降、繰り返し「キャラクターの主観を疑う」というテーマに取り組んできた映画作家だからだ。しかし、それでは『シン・ゴジラ』をはじめとする同時代作品とのシンクロニシティを説明できない。必ず『ダンケルク』や『シン・ゴジラ』を求める時代の声があり、ノーランや庵野にはそれに応えるだけのマーケティング力がそなわっていたと見るべきだろう。

まず、VRをはじめとした各種メディアの「共感」から「体感」への移行が挙げられる。テクノロジーの発達により、ユーザーはフィクションや過去の失われた体験を「体感」できるようになった。IMAX4D上映も、「体感」のツールである。その結果、感情を作品にコネクトさせるよりも、感覚をコネクトさせる作劇に重きが置かれるようになったのではないか。象徴的ではあるが、『ダンケルク』も『シン・ゴジラ』もIMAX上映を前提に制作された。

SNSや動画サイトをはじめとする「斜め読み」の文化の浸透も無関係ではない。ただし、ユーザーが「斜め読み」を習慣化したのは、よく言われるような「集中力の低下」によるものではないと個人的には考える。コンテンツの情報量が飽和した結果、個人の情報処理能力を上回るようになったのだ。人物描写に多くの時間を割くのは、ただでさえ莫大な情報量を詰め込まなければ成立しない『ダンケルク』のような作品において「斜め読み」を促進させる余計な要素になりかねない。

筆者が強く思うのは観客のリテラシーの変化である。現代の観客はインターネットによって情報を常に共有している状態だと言われている。しかし、共有しているのは情報だけなのだろうか。本来なら複数の条件が複雑に絡まりあって初めて生まれるはずの「感情」さえも「ある程度は」共有され始めているのではないか。

たとえば、『ジョーズ』(1975)を見ていない観客でも、いまや『ジョーズ』が優れた恐怖映画だという「情報」は知っている。そして、『ジョーズ』が観客に与えた恐怖がどのような類のものかも知っている。意識すればその恐怖を想像することも可能だろう。もちろん、体験を伴わない感情は実際の感情の強度にははるかに及ばない。しかし、肝心なのは感情の強度ではなく、現代の観客には特定の感情を想起させる「スイッチ」が無数に内在しているという点だ。

映画を見ていて、海面から突き出た背びれが出てくれば、多くの観客が『ジョーズ』の恐怖を想起する。あるいは、水着美女が楽しげに波間を漂っているだけでも、その先の展開を想像し、恐怖する。かつて感情を導くには不十分だった量のシークエンスやカットさえも、現代の観客には立派に感情のスイッチとして機能しているのである。

だとすれば、映画が強い感情を観客に呼び起こすまでの道のりもまた、簡略化できる。登場人物の経歴や行動原理を描くために時間を費やせず、記号的な「感情のスイッチ」をいかに配列するかが作劇の中心となるだろう。『ダンケルク』のプロペラが止まった戦闘機から、同監督作品『インセプション』2010)の回転を止めた駒を観客は想起できる。そして、両者に共通する、登場人物の「生の実感」を共有できれば映画はスリムかつソリッドなサイズに落ち着く。ちなみに『ダンケルク』は超大作の戦争映画としては珍しく106分という尺に収まっている。 

もちろん、『ダンケルク』や『シン・ゴジラ』のような作劇を受け入れられない観客も一定数存在するだろう。自分も『ダンケルク』の方法論が絶対的な正義だと思っているわけではない。ただし、少なくとも『ダンケルク』が支持される背景には映画の現在が垣間見えている。映画は変わってしまったのか、それとも価値観が枝分かれし続けていくのか、2016年から2017年にかけて分岐点にさしかかっているように思えてならない。『ダンケルク』は羽化の途中のさなぎのように、観客に変容する映画の美しさと歪さを提示する。その先にある映画の形はいまだ、誰にも分からない。

Source:http://theweek.com/articles/713048/how-dunkirk-brings-new-horrors-war-movie
https://twitter.com/EdokiJun/status/906407021703864320
高橋ヨシキ 著『新悪魔が憐れむ歌 美人薄命』(2017年、洋泉社)

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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