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『ダンケルク』や『シン・ゴジラ』は登場人物の内面を描いていない?2作品が象徴する映画の分岐点とは

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観客が求めていないのに、それをやってしまう。これが近年のメジャーの日本映画の大きな特徴でした。作品のテーマに合おうが合うまいが、とにかく家族愛の描写や恋愛設定をやたら入れてくる。そのせいでテンポが緩くなって退屈さが生じ、せっかく大スペクタクルのアクションやポリティカルサスペンスを描いても間延びしてくる。

(P18.『シン・ゴジラ』は岡本喜八の弔い合戦である) 

春日氏の文章は筆者の個人的な感覚とも一致する。もっといえば、日本映画に限らずハリウッドの超大作を見ていても同じ感想を持つことは多々ある。春日氏は原因を脚本家の育成システムにあると書く。

観客にとって退屈かどうか、面白いかどうかより「描いているかどうか」というアリバイが大事。そんな観客不在の自己満足のドラマツルギーがまかり通ってきたのです。

(P19.『シン・ゴジラ』は岡本喜八の弔い合戦である)

辛辣な意見だが、筆者も特に否定はしない。映画人を「育成しよう」と考えた時点で、成績を決めるための「基準」が生まれる。そのため、映像学科やシナリオスクールでは「人間を描く」ことが基準になってしまうのだろう。『シン・ゴジラ』の脚本は総監督であり、アニメーター出身の庵野秀明が手がけている。だからこそ、脚本家のイデオロギーから外れた目線で執筆できたのではないか。

高橋ヨシキ氏も「新悪魔が憐れむ歌 美人薄命」(2017/洋泉社)にて『シン・ゴジラ』評を書いている。その中で、最近の脚本家たちの傾向が変化していると、映画学校の教員の言葉を引用しながら実感する。

「近年、奇妙なことが起きている。学生に映画のプロット(あらすじ)を書いて提出するように言っても〈設定〉だけを書いてくる者が多い。登場人物についてもそれは同様で、行動によって性格を示す代わりに、人物の〈設定〉を事細かに決めたがるんだ」

誤解のないように書いておくと、これを引用したのは『シン・ゴジラ』を貶めるためではない。ことの是非は別として、エンターテインメントの定型が姿を変えつつあるという現象が実際にあり、『シン・ゴジラ』も映画学校の学生も、それにビビッドに反応したのだろう。

(P216. 信じられないような奇妙な映画『シン・ゴジラ』について) 

春日氏の評論と重なる内容である。おそらく、10年前までは「設定」だけで登場人物を描写するのは単に脚本家の「未熟さ」の表れとされていただろう。しかし、現に『シン・ゴジラ』も『ダンケルク』も登場人物には名前と役職が与えられているだけなのに大ヒットし、評価も得ている。高橋氏の言うように、是非はともかくとして映画に新しい方本論が生まれているのである。

現代の娯楽映画から人間描写が希薄になった理由

では、どうして「人間の内面を描かない」脚本が同時代性を獲得し始めたのか。正確には、潤沢な予算がかかった娯楽映画に限定される現象ではあるのだが。その理由をノーランの作家性に絡め、「時代がノーランに追いついた」とするのは簡単である。ノーランは『メメント』(2000)以降、繰り返し「キャラクターの主観を疑う」というテーマに取り組んできた映画作家だからだ。しかし、それでは『シン・ゴジラ』をはじめとする同時代作品とのシンクロニシティを説明できない。必ず『ダンケルク』や『シン・ゴジラ』を求める時代の声があり、ノーランや庵野にはそれに応えるだけのマーケティング力がそなわっていたと見るべきだろう。

まず、VRをはじめとした各種メディアの「共感」から「体感」への移行が挙げられる。テクノロジーの発達により、ユーザーはフィクションや過去の失われた体験を「体感」できるようになった。IMAX4D上映も、「体感」のツールである。その結果、感情を作品にコネクトさせるよりも、感覚をコネクトさせる作劇に重きが置かれるようになったのではないか。象徴的ではあるが、『ダンケルク』も『シン・ゴジラ』もIMAX上映を前提に制作された。

SNSや動画サイトをはじめとする「斜め読み」の文化の浸透も無関係ではない。ただし、ユーザーが「斜め読み」を習慣化したのは、よく言われるような「集中力の低下」によるものではないと個人的には考える。コンテンツの情報量が飽和した結果、個人の情報処理能力を上回るようになったのだ。人物描写に多くの時間を割くのは、ただでさえ莫大な情報量を詰め込まなければ成立しない『ダンケルク』のような作品において「斜め読み」を促進させる余計な要素になりかねない。

筆者が強く思うのは観客のリテラシーの変化である。現代の観客はインターネットによって情報を常に共有している状態だと言われている。しかし、共有しているのは情報だけなのだろうか。本来なら複数の条件が複雑に絡まりあって初めて生まれるはずの「感情」さえも「ある程度は」共有され始めているのではないか。

Writer

石塚 就一
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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