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『ダンケルク』や『シン・ゴジラ』は登場人物の内面を描いていない?2作品が象徴する映画の分岐点とは

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たとえば、『ジョーズ』(1975)を見ていない観客でも、いまや『ジョーズ』が優れた恐怖映画だという「情報」は知っている。そして、『ジョーズ』が観客に与えた恐怖がどのような類のものかも知っている。意識すればその恐怖を想像することも可能だろう。もちろん、体験を伴わない感情は実際の感情の強度にははるかに及ばない。しかし、肝心なのは感情の強度ではなく、現代の観客には特定の感情を想起させる「スイッチ」が無数に内在しているという点だ。

映画を見ていて、海面から突き出た背びれが出てくれば、多くの観客が『ジョーズ』の恐怖を想起する。あるいは、水着美女が楽しげに波間を漂っているだけでも、その先の展開を想像し、恐怖する。かつて感情を導くには不十分だった量のシークエンスやカットさえも、現代の観客には立派に感情のスイッチとして機能しているのである。

だとすれば、映画が強い感情を観客に呼び起こすまでの道のりもまた、簡略化できる。登場人物の経歴や行動原理を描くために時間を費やせず、記号的な「感情のスイッチ」をいかに配列するかが作劇の中心となるだろう。『ダンケルク』のプロペラが止まった戦闘機から、同監督作品『インセプション』(2010)の回転を止めた駒を観客は想起できる。そして、両者に共通する、登場人物の「生の実感」を共有できれば映画はスリムかつソリッドなサイズに落ち着く。ちなみに『ダンケルク』は超大作の戦争映画としては珍しく106分という尺に収まっている。 

もちろん、『ダンケルク』や『シン・ゴジラ』のような作劇を受け入れられない観客も一定数存在するだろう。自分も『ダンケルク』の方法論が絶対的な正義だと思っているわけではない。ただし、少なくとも『ダンケルク』が支持される背景には映画の現在が垣間見えている。映画は変わってしまったのか、それとも価値観が枝分かれし続けていくのか、2016年から2017年にかけて分岐点にさしかかっているように思えてならない。『ダンケルク』は羽化の途中のさなぎのように、観客に変容する映画の美しさと歪さを提示する。その先にある映画の形はいまだ、誰にも分からない。

Source:http://theweek.com/articles/713048/how-dunkirk-brings-new-horrors-war-movie

https://twitter.com/EdokiJun/status/906407021703864320

高橋ヨシキ 著『新悪魔が憐れむ歌 美人薄命』(2017年、洋泉社)

Writer

石塚 就一
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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