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実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』に足りなかった哲学─『攻殻機動隊』『イノセンス』では描かれていたアイデンティティ論を考える

スカーレット・ヨハンソン主演、日本からはビートたけしも脇を固めたルパード・サンダース監督作『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、もうご覧になっただろうか。

1991年に士郎正宗によって提示された『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』の世界が初めて映像化されたのは、1995年の押井守監督アニメ作品。以来、2004年公開の続編『イノセンス(海外では”THE GHOST IN THE SHELL2”のタイトル)』、2002年のTVアニメシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』など、様々なメディアミックスが展開され、世界中でカルト的人気を博している。それだけに、今回の『ゴースト・イン・ザ・シェル』はあらゆる角度から期待をかけられていた、重大なプレッシャーの中で作り上げられた一作だ。

筆者は、2017年3月16日に都内某所で開催された今作の記者会見に参加し、スカーレット・ヨハンソンはじめとする出演者や、ルパード・サンダース監督らの今作にかける熱い想いを直接見聞きしていた。監督は押井版アニメ原作について「日本独自の環境と魅力的なSFの表現が融合したという点で現代映画史における金字塔」と評しており、本人の口からも原作やその熱狂的ファンに対する多大なリスペクトを充分に感じることが出来た。

この記事は、映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』のレビュー的内容もほどほどに、原作の一部となった押井守監督による劇場アニメ『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』(1995)と『イノセンス』(2004)で語られていた哲学的テーマについて考察してみたい。

【注意】

この記事には、1995年の映画『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』と、2004年の映画『イノセンス』に関するネタバレ内容が含まれています。
2017年の『ゴースト・イン・ザ・シェル』についてのネタバレはございません。
また、少々長文となっております。

実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』が優れていたと思う点

ゴースト・イン・ザ・シェル
(C)MMXVI Paramount Pictures and Storyteller Distribution Co. All rights Reserved.

結論から言ってしまえば、筆者は実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』の出来にはやや懐疑的である。なぜなら、今回の実写版には『ゴースト・イン・ザ・シェル』の本質的テーマといえる哲学…『アイデンティティ論』の描写が抜け落ちているように感じたからだ。

本質を描ききれていないという意味で、今作は「表層的」な実写化であったとは思う。しかし、今作を全否定したいわけではない。たしかに、科学や技術、神道などあらゆる要素が徹底的に考証され、その上で異常なほどに緻密な世界観を構築した士郎正宗の原作漫画と、その世界観を極めて哲学的、詩的に、かつ芸術的に映像化してみせた押井版の劇場アニメ二部作が宿していた本質には残念ながら至っていない。ところが、攻殻機動隊の物語を実写で視覚的に再現したという点では優れていただろう。…そう、良くも悪くも”再現”だったのである。

キャスティング

そもそも、アニメやコミックが先行して存在するものを実写化するに際しては、誰がこのキャラクターを演じるのか、という点は常に論争の対象となる。今回は、草薙素子という日本人設定のキャラクターを白人のスカーレット・ヨハンソンが演じることについて否定的な意見も目立った。

「なぜ草薙素子をアジア人ではないスカヨハが演じなくてはいけないのか」…この反対意見は納得できるものだが、少なくとも押井守監督に言わせれば「考えられる最良のキャスティング」だという。

「少佐はサイボーグであり、彼女の身体は完全に仮想のものなのです。『草薙素子』という名前や今の身体は、生まれつきの名前や身体ではありません。なので、アジア人の女性が演じなければいけないという主張に根拠はないんです。例え彼女のオリジナルの身体(そんなものがあったとして)が日本人のものだったとしても、それは変わりません」

また、「僕が想像した以上に(スカーレットは素子という)役になっていると思う」とも述べている。

スカーレットは、押井版での草薙素子が持っていた神秘性と、芯の強さを充分に表現できていたと思う。また、『アベンジャーズ』シリーズや『LUCY』で知られるように、激しいアクションもしっかり魅せてくれた。(ただし、少々ムチムチすぎたことについては…。)

そして、多くの日本人観客にとってお気にいりのキャラクターとなりそうなのが、我らがビートたけし演じる荒巻だ。

ゴースト・イン・ザ・シェル
(C)MMXVI Paramount Pictures and Storyteller Distribution Co. All rights Reserved.

荒巻といえば、内務省公安9課の部長(アニメシリーズでは課長)、少佐の上司として現場を取り仕切る。予算の確保や根回しなど、最も胆力を求められる仕事をこっそりとこなしてくれている存在だ。その「ケツ持ち」仕事を担うのがビートたけしというのが頼もしい。少佐やバトーが壮大なスケールの映像世界で走り回り、撃ち回るなか、ふとビートたけし演じる荒巻が「少佐ぁ」と日本語で登場する流れを観るのは、まるで右も左も分からない見知らぬ田舎の夜道をドライブ中、道の向こうにコンビニの看板を見つけたときのような安心感がある。

役者としてのたけしは決して演技力で評価を得ているわけではない。今作でも、はじめこそ「棒読み」っぽさに戸惑うことは否めないが、不思議とすぐに慣れてしまう。何故なら、クールな衣装に身を包み、ヤクザ映画の御頭さながらの迫力で堂々と鎮座するその姿、そして何より、「たけしが後ろでケツ持ちしてくれている」という圧倒的な安心感が、ツッコミの余地をアウトレイジ・ビヨンドしてしまっているからだ。もっとも、この好感はビートたけしというタレント性に由来するものであり、作品や役者評価それ自体からはやや外れていることも認めたい。よって、我々ほどビートたけしに馴染みのない海外の観客の目にどう映るかはわからない。

原作世界の入り口として

実写映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、押井監督の劇場アニメ2部作や、『攻殻機動隊 S.A.C.』などのTVアニメシリーズから様々なエッセンスを取り入れ、1本のSF映画としては充分に成立していた。筆者は、これこそが今作の評価を二分する最大の理由だと考えている。つまり、今作は「全く新しい『攻殻機動隊』」として良くも悪くも成立している、ということだ。

そもそも過去の『攻殻機動隊』映像作品は、それぞれがパラレルワールドとして展開されている。例えば士郎正宗の原作漫画と押井版の劇場アニメでは、「人形遣い」と呼ばれる人物を中心に進行するが、TVアニメシリーズ『攻殻機動隊 S.A.C.』では、「もし草薙素子が人形遣いと出会っていなかったら」というパラレルワールドの物語。日本の作品として珍しく、アメコミでいう『マルチバース』の概念が存在するのだ。

その文化は、実写映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』にも引き継がれている。今作で語られる物語は、草薙素子(劇中では”少佐”の名)やバトー、トグサ、荒巻などといった公安9課のメンバーら(タチコマは登場しない!)が、「企業のネットが星を被い電子や光が駆け巡っても、国民や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来」を舞台に活躍するが、そこで提示される謎や結末はこれまでにない独自のものとなっている。

「良い意味で全く新しい『攻殻機動隊』として成立している」、とはつまりそういうことである。今作は一本のSF映画として綺麗にまとまっているし、まぁそれなりに楽しく観ることが出来る。この作品は、原作未観の観客に対し「面白かったから、原作のアニメも観てみようかな」と動機付けられるほどに魅力的だ。『攻殻機動隊』は原作コミックから劇場アニメ、TVアニメシリーズ、新劇場版なども含めると膨大なユニバースを展開しているが、その最もゴージャスな「入口」として充分機能するという意味で、今作は原作ファンにとっても喜ばしい存在と言えるかもしれない。

しかし、逆張りをしてしまえば「それだけ」という評価を下されかねない。これこそが、「悪い意味で全く新しい『攻殻機動隊』として成立している」と考える理由だ。
お断りさせていただくと、筆者は今回の実写化を鑑賞するまで、士郎正宗の原作漫画、押井守監督の劇場アニメ、神山健治監督のTVアニメシリーズに触れることがなかった。今作を観るにあたって原作の数々を時間が許す限り予習したに限るので、『攻殻歴』はあまりにも短い。それでもなお、原作の持つ哲学的テーマは、明らかに今回の実写化ではカットされているように感じた。

ここまで前置きが長くなってしまったが、それでは本来『攻殻機動隊 / ゴースト・イン・ザ・シェル』が論じていた哲学的テーマとは何だったかを考えていくことにしよう。実写版映画を観ただけでは伝わらない、原作で示唆されていた『アイデンティティ論』とは、こういうことではないだろうか。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』で語られなかった哲学

そもそも『ゴースト・イン・ザ・シェル』で語られる本質的テーマは何か。原作は様々な解釈ができるだろうが、筆者は、作品タイトルそれ自体で提示されているのではないかと思う。『ゴースト』つまり、魂や意識は、『シェル』、機械で出来た体に宿るのだろうか、宿ったとして、それは生身の人間と同じものと言えるだろうか、というものではないだろうか。様々な広がりを見せる『攻殻機動隊』の世界だが、今記事では押井守監督による劇場アニメ『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』『イノセンス』に絞って論じたい。

『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』は、女性型サイボーグである草薙素子を主人公として物語が展開される(続編『イノセンス』で素子は不在)。彼女は、脳と脊髄の一部だけを残して全身を義体(生身の体よりも優れた機械)化している。おまけに『攻殻機動隊』の世界では、平たく言えば脳がインターネットに直接繋がっているのが当たり前なのだ。我々がインターネットに接続する際にはスマホやパソコンなどのデバイスが必要だが、義体化された彼女たちは首の後ろにケーブル接続端子が付いていて、そこにケーブルを繋げば脳内でネットの海にダイブすることができる。そこまでに発達した電脳社会においては、自分自身の意識や経験と、膨大なネット世界に漂う他人あるいは作り物の意識や経験との境界線が今以上に曖昧になっている。

自分の身体はすべて作り物で、残されているのは脳と記憶のみ。それすらも電脳化され、とてもオーガニックな実態とは呼び難い…。そのような条件下において、素子は「私は何者なのか」「そもそも私は存在していると言えるのか」「私は機械と何が違うのか」という哲学的思考に囚われている。実写版は、この問題への切込みが表層的だった。

少佐の出自の謎を暴くという「近未来を舞台にした1本のSFサスペンス」として、良くも悪くもまとまっていたハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』。一方、押井守監督攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』(1995)と、それに続く『イノセンス』(2004)は、「この作品は明らかに私に何かを伝えようとしている」ことを感じさせる作品だ。そのメッセージは、詩的で難解に語られているが故に、観客によっては「難しくて良く分からない」と跳ね返されてしまうケースもあろうが、あまりの深奥さに「一体あれは何だったのか」と夜通し考えさせるほどの魔性に近いまでの不気味な引力を持っている。このブラックホールにもよく似た、無限の探究心を刺激させる仕掛けは、ハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』では見られなかった。

筆者は、『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』と『イノセンス』を鑑賞した後、攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』は『合理主義』を、そして『イノセンス』では『実存主義』を描いているのではないかと考えた。

合理主義を描いた攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』

素子は、『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』でこうつぶやいている。

「私みたいな完全に義体化したサイボーグなら、誰でも考えるわ。もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか。いや、そもそもはじめから私なんてものは存在しなかったんじゃないかって…。」

これを聞いていた同僚バトーは、「お前のそのチタン製の頭蓋骨の中には脳みそもあるし、ちゃんと人間扱いされているじゃないか」と諭すが、素子は納得しない。何故なら、「本物の脳みそがあること」「周囲が人間扱いしてくれること」と、「自分が本当に人間としてこの世界に存在すること」は、実は関係がないからだ。「自分の脳を見た人間なんていやしないわ。所詮は周囲の状況で、『私らしきもの』があると判断しているだけよ」と素子が反論するように、我々は自分の五感を元に、どうやら自分は今ここに存在しているらしい、ということに”勝手に納得”しているに過ぎない。

だって、あなたが今存在するということを、どうやって証明できるのだろうか。あなたの五感や、これまでの記憶が全て夢幻ではないと100%証明することはできるだろうか。もしかしたら、あなたははるか昔に事故に遭い、肉体的には死んでしまったが、ぐちゃぐちゃになった身体から脳だけを取り出し、どこかで水槽のようなものに浸けられて、特殊な装置によってずっと夢を見せられているだけかもしれない。そんな恐ろしいことは有り得ないって?筆者だってそう信じたいが、残念ながら「有り得ない」と証明する手段はないのだ。

生身の身体と生身の脳を持つ我々だって、こんな風に自分たちの存在を疑うことはできる。まして、電脳と全身義体で構成される素子ほどアンバランスな個体にとっては、自分の存在を信じることはもっと難しい。素子に「もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら、そのときは何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」と問われたバトーは、しばし沈黙した後に「くだらねぇ!」と吐き捨てることしかできなかった。

もしも草薙素子がデカルトと出会ったら

このように素子は、自分の存在を”疑う”という底なし沼に呑まれた哀れな存在として描かれている。素子のように、自分自身の存在を疑う余地がなくなるまで丸裸にして疑う、という思索は、まさにデカルト(1596~1650)が心血を注いだものだ。

もしも素子がデカルトに出会っていたら、存在証明に頭を悩ませる素子は、事あるごとにデカルトの元に相談に行ったに違いない。「私は、何を根拠に自分の存在を信じるべきなのか」という問いに、哲学者ではないバトーはうまく答えることができなかったが、近代哲学の父と呼ばれるデカルトなら、こうアドバイスしただろう。

「確かに君の身体は作り物で、わずかに残された脳もチタン製の人工頭蓋骨で覆われている。自分が本当に人間なのかと疑うのも無理はないね。では、君自身を疑っている存在については、どうだろう。”疑っている私”の存在は、疑うことなく存在しているのではないだろか。」

いわゆる「我思う、故に我あり」である。たとえ素子の存在が不確実なものだったとしても、”素子は自分の存在を疑っている”という事実そのものは決して疑うことができないのだ。

だが、16~17世紀のフランスを生きたデカルトの説得は、電脳化社会に生きる草薙素子を完全に納得させることはできないだろう。素子なら、こう反論するだろうか。

「確かに、私の存在を疑うゴーストが存在するのは事実のようね。では、そのゴーストが電脳から副次的に産み出された非生命的存在でないと、どう証明すれば良い?」

電脳の海から産み出された人形遣い

この切り返しには、さすがのデカルトも一瞬たじろぐかもしれない。攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』では、人間界を飛び越えて、ネットの海からゴースト(魂、意識)が生み出されることは有り得るかという厄介なテーマが提示される。この問いの結晶体とも呼べるのが、人形遣いという名のヴィランだ。

人形遣いは、今や人類社会の隅々まで浸透したネットを自在に操ることのできる、人智を越えた存在として荒巻や素子らの前に立ちはだかる。人形遣いは自らを「生命体」と名乗ったところ、人間に「単なる自己保存のプログラムに過ぎん」と返される。しかし、「あなたたちのDNAもまた、自己保存のプログラムに過ぎない」と、ぐうの音も出ない論拠を持って反論する。およそ哲学者のように言葉を操る人形遣いによれば、人間とは、プログラムだとかDNAだとかの生態学的なものによってではなく、「ただ記憶によって個人たりうる」という経験論に基づくものだという。つまり、人間らしさとは身体、存在といった実態性よりも、過去の記憶で象られる「情報」によって成り立つものだと、人形遣いは主張するのである。人形遣いは情報の結集体なのだから、彼の理論に従えば人間や生命の一個体として成立するという主張だ。事実、人形遣いは「私は、情報の海で発生した生命体だ」と言う。

これこそ、デカルトの返答だけでは素子が納得できなかった疑問の現れなのである。攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』では、人形遣いがこの言葉を発するシーンより以前に、素子が同じような疑問を口にしていた。素子が海に潜るシーンだ。(ちなみにこのシーンはハリウッド版でも実写化されていたが、ある決定的なポイントが欠けていた。これについては後述する。)

海から上がり、ボートの上の素子は無表情のまま、一気に吐き出す。

「人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くの部品が必要なの。」

ここで素子は”部品”という単語を使っているが、これは義体化された自分自身への皮肉も込められている。この後に続くセリフはこうだ。

「他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚める時に見つめる手、幼かった頃の記憶、未来の予感。それだけじゃないわ。私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり。」

このように素子は、自分を自分たらしめる”部品”には、“情報”が必要不可欠であり、重要であることに気がついている。彼女は、こういった”部品”のすべてが「私という意識そのものを生み出し、そして同時に、私をある限界に制約し続ける」と語っている。

さぁ、またわからない表現が出てきたぞ。“私をある限界に制約し続ける”ってどういうことだろう?だって、全身を義体化している素子は、人間の生身を凌駕した身体能力を持っているじゃないか。ハリウッド版でも見られたように、光学迷彩で身体を透明にしたり、素早い動きと力強い攻撃で敵を圧倒することもできる。人間の場合身体を失ったらそれまでだが、素子の場合破壊されてもパーツを組み替えれば元通りだ。おまけにメンテナンスをすれば”老い”も無い。しかもネットにダイブすれば瞬時にありとあらゆる情報を入手することもできる…。

僕たち人間から見れば、どう考えても”制約”を超越したスーパーな存在のように感じられるのに、なぜ素子は”ある限界に制約”されていると感じていたのだろう?

この疑問の答えは、人形遣いのセリフに任せるとしよう。彼はこんなことを言っている。

「私は自分を生命体だと言ったが、現状ではそれはまだ不完全なものに過ぎない。何故なら、私のシステムには子孫を残して死を得るという、生命としての基本プロセスが存在しないからだ。」

そして、人形遣いは素子が抱いていた”限界”に対する漠然たる不安に、ドンズバリの言葉を投げる。

「君が今の君自身であろうとする執着は、君を制約し続ける」

この発言をこう解釈してみよう。未熟な人間は、物質世界に執着するあまり、主観(精神)と客観(モノ)を切り離し、二元論的に考えている。素子も結局は僕たちと同じ物質世界出身の存在だから、私のゴースト=主観(精神)と私の義体=客観(モノ)の存在にギャップを感じ、悩んでいるのだ。しかし、物質世界に由来しない人形遣いにとって、主観(精神)と客観(モノ)は区別されない。つまり人形遣いにとって、主観(精神)と客観(モノ)は重なり合った同一の存在なのである。

ただ、人形遣いには『子孫繁栄ができない』というたったひとつの欠陥があった。そこで人形遣いは素子に『融合』を申し出、素子も思案の後承諾。人形遣いは素子という子孫を得る。素子はと言えば膨大なネットの海と同一化し、客観(モノ)を切り捨てた「更なる上部構造へとシフト」したのである。これは、ヘーゲル(1770~1831)の「真理とは全体である」という考えにも似ている。

その後、少女の人形に憑依した素子は「ここには人形遣いと呼ばれたプログラムも、少佐と呼ばれた女もいないわ」と語り、実体を越えた存在と化したことを示唆する。攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』は、こうして幕を閉じるのである。

実存主義を描いた『イノセンス』

攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』でネットの海と同一化してしまった素子にとって、もはや義体や物体としてこの世界に存在することは”制約”であり、メリットが少ない。『イノセンス』では素子が”行方不明”、”失踪”した後の世界でバトーらが活躍する物語が描かれる。この続編でテーマとなるのは、キルケゴール以降の哲学、実存主義ではないだろうか。

『イノセンス』では、前作で素子が抱いていた「自分らしさはどこからやってくるのか」という疑問を更に深掘りしている。今作では、「人間と機械(人形)は何が違うのか」というテーマが示されるのだ。

機械、と言うと極端なのだが、攻殻機動隊の世界のように、人間と見分けがつかない見た目をしていて、人間のように思考することができるアンドロイドが存在したら、あなたは「人間とドロイドの違いって何?」との問いにハッキリ答えることができるだろうか。

え?生殖本能があるかないかだって?たしかにアンドロイドはセックスもしないし子供も産まない。でも、『攻殻機動隊』の世界で人形遣いは草薙素子と”融合”し、自らの遺伝子と模倣子を残すという意味で、生殖活動を実現してしまった。(っていうか”融合”ってどういうことだよ?というSF的疑問は、一旦ここでは置いておこう。)

『イノセンス』では、攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』とは違った角度で”アイデンティティ論”を問いかける。そもそも初めからアンドロイドとして生み出された存在は、自らの存在をどう解釈するのだろう。そして、その存在は人間とどう違うのだろう。

目的が先か、本質が先か?

『イノセンス』冒頭では、ユーザーに捨てられた愛玩用ロボットが浮浪化するという事件が発生していることが語られる。そこで女性検視官ハラウェイはいきなりこんな深いことを言い出すのだ。

「人間とロボットは違う。でも、その種の信仰は白が黒でないと言う意味において、人間が機械ではないと言うレベルの認識に過ぎない。」

わかるような、わからないような気がするって?つまり、「人間とロボットって何が違うの?」と問われた時、僕たちは「だって人間は機械じゃないもん!だから人間はロボットじゃないでしょ!」くらい雑な説明(白は黒じゃないから、黒じゃないよ!レベルの説明)しかできないんじゃないの?ということをハラウェイは言いたいのである。続いてハラウェイはこんなことまで言い出す。

「工業用ロボットはともかく、少なくとも愛玩用のアンドロイドやガイノイドは功利主義や実用主義とは無縁な存在だわ。」

この発言は、明らかにアンドロイドの”実存”性を問いかけるセリフである。どういうことか、順を追って説明しよう。

まず、「人間とロボットってどう違うの?」という問いかけを再度引っ張り出してこよう。例えば、ここにお寿司を握るマシーンちゃんがあったとする。お寿司握りマシーンちゃんは一体何のために作られたかといえば、そりゃあもう、お寿司を握って握って握りまくるためである。美味しいお寿司を、できるだけスピーディーに、かつ正確に握りまくるのがお寿司握りマシーンちゃんの使命であり、作られた”目的”なのだ。

そう、お寿司握りマシーンちゃんが作られたのには目的があった。たくさんのお客さんを捌きたい回転寿司屋さんが、できる限り低コストで効率的にお寿司を提供する方法を探求した結果、「人間ではなく、機械に握らせる必要がある」という結論に至ったので、お寿司握りマシーンちゃんは開発・製造されたのだ。お寿司握りマシーンちゃんは、シャリを入れるためのいい感じの凹みがあって、ネタを載せるためのいい感じの台がある。シャリとネタを握り合わせるためのいい感じのアームが、いい感じに曲がっている。全ては、お寿司を握りまくるためにいい感じに作られているのだ。このように、モノや道具、機械にはふつう、「こういう理由で、これに活用するために作りました」という目的が必ず先行する。

でも、人間は違う。僕たちには生まれてきた時点で目的なんてない。いくら板前さんが子供を作って「おめぇは将来立派な寿司職人になるんでぃ」とか言ったって、「だからその手は寿司を握るためだけにいい感じの形をしているんでぃ」とはならない。手は手だもの、他にも使いみちはたくさんある。星一徹が星飛雄馬に「お前は巨神の星になれ」とか言ったって、アナキンが「君は選ばれた者だったんやで」とか言われたって、そんなものは人間一個人にとって選択肢のひとつであり絶対的な目的ではない。幸か不幸かは分からないが、僕たち人間って「コレをやるために生まれてきた」という目的は、後から見つけてくるもので、「存在」の方が先にきてしまっているのだ。(まぁ、目的が見つけられない人間も、たくさんいるけどね。)

そういう意味で、お寿司握りマシーンちゃんと人間の板前さんは、『目的と本質』が互いに逆転しているという意味で全然別物だということがおわかりいただけるかと思う。

ではここで、もう一度先のハラウェイのセリフを見てみたい。

工業用ロボットはともかく、少なくとも愛玩用のアンドロイドやガイノイドは功利主義や実用主義とは無縁な存在だわ。」

うん、なんか言いたいことがわかる気がするぞ。工業用ロボット(お寿司握りマシーンちゃんみたいな存在)は功利主義(利益を目的とすること)や実用主義のためにある…うん、たしかにその通りだ。でも、愛玩用アンドロイドって、利益とか実用性のために作られたものだろうか?
うーん、セクサロイド(人間とのセックス機能に特化したアンドロイド)だったら、目的が先行しているという意味では実用主義と言えるかもしれないけど…、でも、ハラウェイがここで言っているのはセクサロイドに限定していない。愛玩用アンドロイドとどう付き合っていくかという存在意義や価値って、結局後から他人によって定義付けられたり、高度な知能を持つアンドロイド自身が自ら見出していくものなのかもしれない。それって、さっき考えていた、「人間は目的よりも存在が先行する」って考え方とダダ被りしている。せっかく「人間と機械の違い」がなんとなくわかったのに、これでまた境界線が曖昧になってしまった。

このように、『イノセンス』では人間とロボットの存在意義について、実存主義の観点から疑問を呈していく。このテーマは、ハリウッド版ではほとんど触れられていない。どちらかといえば、『エクス・マキナ』(2015)の方が『攻殻機動隊』的哲学テーマを描いている。(詳しくは割愛するが、特に”何を描くか決めずに感情のままに絵を描く”ドリップ・ペインティング”について語るシーンは、まさに”実存”をアートに置き換えた説明だ。)

深い無意識の喜び

ハラウェイは、なぜ人間は愛玩用アンドロイドを「人の形、それも人体の理想形を模して作られる必要があったのか。人間はなぜこうまでして自分の似姿を作りたがるのかしらね」と問いている。確かに、人間が癒やしを求め、愛でるためのアンドロイドなら、犬や猫の形とか、ピカチュウとかBB-8みたいな形にしても良いはずのところ、『攻殻機動隊』の世界の人間は(そしておそらく僕たちの未来も)理想的な人間の形のアンドロイドを作りたがる。そして、ハラウェイは、まだ自意識が芽生える前段階の小さな女の子が「子育てごっこに使う人形は実際の赤ん坊の代理や練習台」ではないとし、「女の子は決して育児の練習をしているのではなく、むしろ人形遊びと実際の育児が似たようなものなのかもしれない。つまり子育ては人造人間を作るという古来の夢を一番手っ取り早く実現する方法だった」のではないかと考察する。人間には、フランケンシュタイン・コンプレックス(創造主である神に成り代わって人造人間を創造する憧れ)が構造的に組み込まれていると言うのだ。

では、なぜ人間は人造人間(人形、アンドロイド)を作りたがるのだろうか。この疑問について、『イノセンス』にヴィランとして登場する”キム”は、たっぷりと解説してくれている。

キムは、「真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身のことだ。崩壊の寸前に踏みとどまって 爪先立ちを続ける死体」とかいう、およそ理解しがたい不気味で恐ろしいことを言いながら、自ら意識のない人形になろうとしている。なぜ人間は人形を作りたがるのか、それは人形が究極に美しいからであり、人間はそれに憧れているから。では人形の何がそんなに美しいのか、その決定的なポイントは「人形には意識がない」ということなのだそうだ。

これに続くキムの主張はこうだ。

「人間はその姿や動きの優美さに、いや、存在においても人形にかなわない。」

つまり、”どうあるべきか”とか”どう見られているか”を常に意識してしまう人間の姿や所作には、その本人の”自意識”がノイズとして入ってしまうことで純粋さを欠いているということだろう。なんとなく、言いたいことはわかる。たとえば、(決してディスっているわけではないが、)カメラの前で決め顔をしてポーズを取るモデルさんを見た時、「あぁ、この人は今”いかに自分を綺麗に見せるか”を意識しまくってポージングしてるんだろうなぁ」なんて思うことはないだろうか。すると途端に、次々ポージングしまくるモデルさんが、なんとなく見ていて気恥ずかしくなるというか、雑念がかかった存在に感じてしまう。

キムは、その点人形は意識がないから真に美しいのだと、そう主張しているのだ。そして、意識を持たない存在として、人形、神、更に動物の存在も挙げている。キムの説法では例としてヒバリが登場する。ヒバリの鳴き声は、人間の自意識に満ちた歌とは全く異なり、無意識のまま魂の底から鳴いているのだと。キムは、「我々のように自己意識の強い生物が決して感じることの出来ない、深い無意識の喜びに満ちている」とも語っている。

ここまで納得ができたら、もう一度キムの冒頭のセリフを読み返してみたい。

「真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身のことだ。崩壊の寸前に踏みとどまって 爪先立ちを続ける死体。」

これがハラウェイの「なぜ人間は理想の形をした人形を作りたがるのか」というフランケンシュタイン・コンプレックス的な問いに対する答えというわけだ。そして、人間と機械(人形、アンドロイド)とは何が違うのかといえば、「自意識があるかないか」であるとも言えるだろう。

(『イノセンス』の押井守が凄かったのは、これだけ「意識を持たない人形は美しい」と人形美学を語っておきながら、肝心の人形は劇中ホラー並に恐ろしく不気味に描かれ、そしてグロテスクに破壊されていく様子を表現したところだ。『イノセンス』は、シンギュラリティ(技術的特異点)を控えた我々人類に対する、ロボットたちからの芸術的反逆とも言える。)

まとまりすぎたハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』

攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』と『イノセンス』は、こういった哲学的に考察させる要素をふんだんに盛り込みながら、それぞれが独立したSFミステリーとして成立していた。一方ハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、少佐のオリジンを追うSFサスペンスとして仕上がりきっていた。その謎は劇中で綺麗に明かされ、観客は(腑に落ちるかどうかは別にして)「あー、そういうことだったんだねー!」と納得して劇場を去ることができてしまう。言い換えれば、謎も影も、何も残さないのだ。

今作の記者会見でルパート監督は、単なるポップコーン映画でなく、観客の心に響き、議論に発展するような作品になることを望んでいます」と語っていたが、今作を観て監督が望んだ意味での議論ができる作りになっていたかというと、大きな疑問が残る。

例えば、少佐が海に潜るシーン。これは士郎正宗の原作コミックでも、押井守版攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』でも描かれていたシーンの実写化であるがハリウッド版では「素子の生への執着」を物語る大事なセリフが削られてしまっていたのである。

全身が義体である素子にとって、海に潜ることは命にかかわる危険行為。バトーにも「もしフローターが作動しなかったら(どうするつもりだ)」と注意されている。潜ると言うより、沈むと言った方が適切な表現かもしれない。

それでも素子が海深くに堕ちゆくのにはたったひとつの理由がある。「海面へ浮かび上がる時、今までとは違う自分になるんじゃないか」と期待しているのだ。鋼の義体とは相対して、あまりにもか細い”生への執着”を視覚的にも示唆するように、攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』では寒色の海底から暖色の海面へとゆっくりと浮かび上がっていく。素子は、海面に鏡写しされた夕焼け色の自分自身に文字通り姿を重ねると、鏡写しの自分は海面のゆらぎに消え、水面に上昇した自分の実体だけが残る。

このシーンでは、体温を持たない冷たい義体の身体の素子が、「今までとは違う自分になるんじゃないか」、つまり『生命としての自覚』を確実に持つ存在になれるのではないかと期待していることがわかる。このようにして素子は、生への執着を見せていた。

このセリフを削ってしまっていた時点で、ハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、少佐のアイデンティティ論を内省的に探求するのでなく、いかにもハリウッド的な大味な展開で追っていくであろうことが読めてしまうのだ。

ただし、筆者は「だからハリウッド版はダメ」「だから原作は最高」と主張する意図はない。前半でも述べたように、『攻殻機動隊』の世界への最もゴージャスな入り口としては充分に機能しているのだ。会見では、ルパート監督も以下のように語っていた。そして、この意図に関しては成功していると思うと言いたい。

「この作品を通じて、魅力的で壮大で、叡智的でアーティスティックな日本文化をもっと世界中の人々に知ってもらいたいんです。アニメや漫画を作っている人たちと、世界中の人たちが出会えるような冒険の港が開くことを望んでいます。僕が若い頃、友達に『ゴースト・イン・ザ・シェル』のVHSをもらって出会ったようにね。」

映画『ゴースト・イン・ザ・シェル(原題:GHOST IN THE SHELL)』は、4月7日(金)よりTOHOシネマズ 六本木ヒルズほか全国ロードショー。

Source:http://jp.ign.com/ghost-in-the-shell-live-action-movie/12278/news/
https://youtu.be/BQWY_1Wf98Q
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中谷 直登Naoto Nakatani

THE RIVER創設者。代表。運営から記事執筆・取材まで。数多くのハリウッドスターにインタビューを行なっています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。