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『ミスター・ガラス』あなたは「物語」を信じられるか? ─ M・ナイト・シャマランは観客に問い続ける

ミスター・ガラス
©Universal Pictures All rights reserved.

 「夢を信じよう」「自分を愛そう」。

こんな言葉を聞くたび、失笑してしまう人は多いのではないか?夢を信じることも、自分を愛することも批判されるような行為ではないにもかかわらず。どうして、純粋すぎる言葉が人々から軽蔑や反感を集めてしまうのかというと、それらがあまりにも世に氾濫しすぎているからだろう。映像も音楽も出版物も、簡単に夢だの希望だの愛だのを謳い続けてきた。しかも、その9割は完全なるコマーシャリズムの産物だ。「フェイク」というやつである。その結果、何らかの表現と熱心に向き合おうとするファンほど、純粋に聞こえる言葉には猜疑の目を向けるようになってしまった。

自覚的なクリエイターも同様である。彼らが自作でストレートなテーマを取り上げたがらないのは、商業性を優先して平気で大衆を騙す連中と一緒にされたくないためだ。そして、才人たちの表現はどんどん先鋭化し、露悪的になることすら珍しくない。そんな中、M・ナイト・シャマランだけはハリウッドという巨大産業で孤高の戦いを繰り広げている。『ミスター・ガラス』(2018)を見てみよう。シャマランは、この時代に「夢を信じて自分を愛そう」という、何の不純物もないメッセージを発信しているクリエイターなのだ。

この記事には、『ミスター・ガラス』『アンブレイカブル』『スプリット』に関する重大なネタバレが含まれています。

「どんでん返し」はシャマランの本質にあらず

シャマランは「変」「トンデモ」といった評価を受けやすい映画作家である。『シックス・センス』(1999)の大ヒット後、しばらくは好意的だった観客も『レディ・イン・ザ・ウォーター』(2006)『ハプニング』(2008)には容赦なく罵声を浴びせた。そして、『ヴィジット』(2015)あたりから才能が復活したというのが一般論ではないだろうか。

しかし、シャマランの作家性自体はキャリア中、寸分たりとも変わったことがない。ありとあらゆるジャンルのクリエイターで、ここまで自分を貫いてきた人は稀である。シャマランは常に「信念」についての映画を撮り続けてきた。何の信念?もちろん、「物語」をつむぐことに対して、だ。

よく『シックス・センス』や『サイン』(2002)、『ヴィレッジ』(2004)などについて「ラストのどんでん返しが衝撃的」との言説を見かける。ただ、筆者は映画におけるどんでん返しが完成度を左右することはないと思う(念のため、必ずしもどんでん返しで作品が貶められるとも思っていない。優れた映画の条件と、意外なオチは無関係ということだ)。これらの作品では、クライマックスにいたるまでのプロットすべてが、登場人物の信念ひとつに影響されていたという点にこそ真の意味があった。そして、その信念はシャマランがストーリーテラーとして常に抱いているものと同じである。それが正しいとか、間違っているとかいうことではない。ひとつの物語を信じきることで、自分の世界は変わるのだ。

M・ナイト・シャマラン Photo by Gage Skidmore https://www.flickr.com/photos/gageskidmore/28769151787/

デヴィッドやケビン、イライジャは凡人なのか?

『ミスター・ガラス』のワンシーンを引用しよう。拘束されたデヴィッド(ブルース・ウィリス)、ケビン「たち」(ジェームズ・マカヴォイ)、イライジャ(サミュエル・L・ジャクソン)は精神病院の一室に集められている。3人は自らが超人的な能力を持っている人間だと信じていた。彼らと対話するのは女医のエリー(サラ・ポールソン)だ。エリーは理論的かつ残酷に、3人の能力についての反証を挙げていく。彼女は「超人などこの世にいない。お前たちが抱いているのは妄想だ」と3人を論破しようとしていた。彼らの活躍は、シャマランの過去作、『アンブレイカブル』(2000)や『スプリット』(2016)でも明らかにされているのに。

このシーンで、『ミスター・ガラス』(と『アンブレイカブル』と『スプリット』)は奇妙な反転を見せる。良心的な男であるデヴィッドはともかく、これまでヴィランの立ち位置だったケビンとイライジャすら、作中で迫害される側にまわるのだ。当たり前のようにデヴィッドやケビンの能力を受け入れてきた観客すら、エリーの話術にはまっていく。確かに、彼らは「ちょっと運が良く力持ちの凡人」にすぎないのではないかと疑うようになる。

そういえば、『ミスター・ガラス』の序盤、ビースト(ケビンの内に宿る最強の人格)とデヴィッドの戦いは意図的に「盛り上がらないような」撮り方がなされていた。たとえば、『アベンジャーズ』のようなヒーロー映画なら大胆なカメラアングルで、もっとカットを割って興奮を演出しただろう。あえて地味な映像にしてあるのは、彼らが超人なのか凡人なのかを観客に悟らせないための意図がある。

だからこそ、観客は3人を応援せずにはいられない。病院を脱出できるように?気に食わない女医に一泡吹かせられるように?違う。我々にもう一度、超人のすごさを見せつけてくれるように、だ。

だって、そのほうが面白くないだろうか?

物語に託される人間の心の自由領域

シャマラン作品では、往々にして閉鎖的な空間を舞台にプロットが展開していく。そして、登場人物がさまざまな試練に遭遇し、乗り越えるまでが描かれる。宇宙人や化け物が攻めてこようと、異常者の脅威にさらされようと、試練の本質はさほど違わない。要するに、登場人物が自分の信念を貫けるかどうかに試練の結果はかかっているのだ。シャマラン作品の閉鎖的空間は、社会的な倫理や常識を超え、人間の願望で世界を決定できる場所を意味する。『ミスター・ガラス』におけるコミックショップはシャマラン的舞台の典型例だ。そして、社会側の代表として、精神病院と女医が登場人物たちの行く手を阻む。

では、どうしてシャマランは物語を信じようとするのだろう?多くの映画で、物語とは時代や社会を反映するための手段にすぎない。また、登場人物の心象を描くためにも物語は用意される。しかし、シャマラン作品では、物語そのものが重要である。それが何を描いているか、ということは二の次でしかない。

こう考えることは可能だろう。シャマランにとっての物語とは、人間の想像力が無限に広がっていく場所なのである。そこでは、どんな夢や希望も肯定される。危険な人格を何人も宿しているケビンさえ、シャマランは批判的に描かない。自分の可能性を超越し、物語の住人となった人物は正義であれ悪であれ、シャマランには愛すべき存在なのだ。そう、シャマランが守ろうとしているのは、物語に託される人間の心の自由領域なのである。

スプリット
『スプリット』Blu-ray&DVD発売中 (C)2017 UNIVERSAL STUDIOS. All Rights Reserved.

こうした前提を見逃すと、ときにシャマラン作品を見終わって「肩透かしをくらった」という感想を抱くことになる。原因として、『シックス・センス』のヒットを受け、彼の映画を「どんでん返しが衝撃的」とPRしだした風潮が大きい。ただ実際のところ、「どんでん返し」などシャマランが商業映画を撮り続けるために覚えた飛び道具でしかない。

そもそも、『レディ・イン・ザ・ウォーター』のヒロインの名からして「ストーリー」である。そして、シャマラン本人が彼女を保護する登場人物の1人を演じていた。シャマランの映画において、常にヒロインは物語の守護者だ。ちなみに、『ミスター・ガラス』のエリー博士はむしろ、物語の破壊者に見える。だとすれば、本作のヒロインは――。

あなたは物語を信じられるか?

そういうわけで、いまだにシャマラン作品を「どんでん返しの衝撃性」だけで読み解いてしまうと、表現の根幹を見失ってしまう。数学でいえば、数式は合っていても解くべき問題を間違っている状態だ。繰り返すが、シャマラン映画においてギミックはさほど重要ではない。彼が観客に提示している問題は常に「あなたは物語を信じられるか?」なのだから。

 『ミスター・ガラス』は夢を「信じることの大切さ」、「自分を愛する素晴らしさ」を教えてくれる「物語」だ。他のどんな作品がこうした言葉を嘘っぽく使っていたとしても、本作の熱意だけは信用していい。

映画『ミスター・ガラス』は2019年1月18日(金)より全国の映画館にて公開中。

『ミスター・ガラス』公式サイト:http://Movies.co.jp/mr-glass

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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