【解説】メル・ギブソンは「審判」の夢を見るか? 最高傑作『ハクソー・リッジ』に込められた「狂気」を探る

戦場で聞こえた神の声…「信仰」と「狂気」は紙一重
2016年、アンドリュー・ガーフィールドは俳優人生に不思議な経歴を刻むこととなった。その年の公開作で、二度も「神の声」を聞く役を演じたのである。まずはマーティン・スコセッシ監督のライフワーク『沈黙』(2016)。日本の地で、カトリック教徒を救うための「踏み絵」と信仰の狭間で揺れるロドリゴ神父(ガーフィールド)は、苦悶の中で神の声を聞き、踏み絵を決断する。
ところで、最近出版された文芸批評の中で『沈黙』原作が辛辣に批判されていた。小谷野敦『芥川賞の偏差値』によれば、そもそも神の声など聞こえるはずがなく馬鹿馬鹿しいというのである。原作者・遠藤周作はカトリック教徒であったが、小谷野はそうではない。信仰とは深まれば深まるほど、信仰なき者からは理解しがたい思考や感情を辿るようになるのだろう。そして、ときに人はそれを「狂気」と呼ぶ。
【注意】
この記事には、『ハクソー・リッジ』に関する内容に触れています。
メル・ギブソン監督『ハクソー・リッジ』(2016)は「狂気」としての信仰により接近している作品である。1945年、太平洋戦争終盤の沖縄戦で米軍の衛生兵、デズモンド・ドス(ガーフィールド)は絶壁「ハクソー・リッジ」の頭頂部にいた。日本軍の必死の抵抗により戦況は拮抗、艦隊からの砲撃を要請した米軍は一時退却を始める。ドスは「モーゼの十戒」にある「汝、殺すなかれ」を頑なに守り、武器を所持していなかった。ただでさえ追い詰められた戦局で、ドスの命も危険に晒されている。しかし、敬虔なクリスチャンであるドスは神の声を聞いた。傷ついた無数の兵士の絶叫と助けを求める声を「神の声」と捉えたのである。
I can hear you….All right.(僕には聞こえます。分かりました)
かくしてドスは日本兵が潜伏する戦場で、ただ一人取り残された兵士を救出する行動に出る。『ハクソー・リッジ』は実在したドスの英雄譚として制作されているが、自身もクリスチャンであるメル・ギブソン監督の信仰心が演出に重ねられているのは間違いないだろう。そして、『ハクソー・リッジ』は「信仰」と「狂気」を振り子のように往復しながら、観客を戦慄させる映像体験をぶつけてくる。こうした「狂気」は間違いなく「原理主義」に当てはまるし、「偏向」しているともいえる。だが、『ハクソー・リッジ』は思想が偏っているからこそ映画史に残る傑作となったのである。
あまりにも潔白なデズモンド・ドスという主人公
『ハクソー・リッジ』作中、ドスは潔白で無垢な人間として描かれ続ける。常に笑顔を絶やさず、信仰に厚く、20歳を越えても童貞である(明確な描写はないが、父親との会話から女性と会話することがほとんどなかったと推測される)。実際のデズモンド・ドスの生い立ちはともかく、少なくとも映画内ではそのような人物として設定されている。そして、人助けをしてやって来た病院で、美しい看護士に一目惚れし、翌日には「結婚する」と宣言してデートに誘うのだ。彼女といるときのドスのあどけない笑顔はチャーミングだが、健全すぎて逆に違和感がある。
ドスが意中の女性と出会ってすぐに結婚にこだわるのは、敬虔なクリスチャンにとって結婚を前提にしない男女交際は不純だからである。もちろん、1940年代当時にもなれば、多くの男性がそんなルールを気に留めなくなっていた。ドスの信仰する宗派はかなり原理主義的で戒律に厳しいとうかがえる。実は、カトリック原理主義者であるギブソンも、婚前交渉に反対する立場をとっている。ギブソンは自身の思想をドスに委ねて撮影していたのではないだろうか。
自宅に教会を建ててしまうほどの信仰を持つギブソンが、これらのポイントに何も思わなかったわけがない。『ハクソー・リッジ』はドスの物語であると同時に、ギブソンの理想的な信仰像を追及する旅でもあるのだ。