【追悼ジョナサン・デミ】傑作『羊たちの沈黙』(1990)からその作風を振り返る─ 被写体との距離、演出

2017年4月26日、映画監督のジョナサン・デミが鬼籍に入ったとの報がありました。
享年、73歳。元気な老人が多い映画監督業界にあって少々早すぎる死でした。

Jonathan Demme at Coolidge Corner Theatre in Brookline, Massachusetts, USA
ジョナサン・デミはキャリア初期においてコメディの人でした。そのキャリアの転機となったのが『羊たちの沈黙』(1990)です。
トマス・ハリスのサイコ・サスペンス小説を原作とする『羊たちの沈黙』はホラーというジャンル上の不利を抱えながら熱狂をもって迎えられアカデミー賞の主要五部門をすべて制覇するという快挙を成し遂げています。以後、ジョナサン・デミはシリアスなドラマをメインフィールドとして活躍するようになります。今回は彼の芸風を、その転機となった『羊たちの沈黙』から振り返ります。
被写体との距離で変わるもの
その監督の芸風を簡単にどんなタイプと分類することはできません。ですが「特定の分野においてどうか」という分類ならばできます。
少々乱暴なくくり方ですが、演出の仕方は「被写体との距離」という観点から三つに分類できます。
一つ目は引き画を主体に構成していくタイプです。
引き画は人物と一緒にその場にあるものや場所が一緒に入っています。「ロングショット」というドン引きの画になると人物の表情はほとんど見えず口の動きすらわかりません。そのため引き画を主体にすると人物の心情からは遠ざかった客観的な雰囲気になります。
引き画をメインにした作品は全体的に体温の低い情感に仕上がります。現役の監督だとウェス・アンダーソン、コーエン兄弟、デヴィッド・フィンチャーが例として挙げられます。彼らは人物をメインにした画でもバストアップ以上の近い画をほとんど使わず、常に被写体からある程度の距離を取ることを好んでいます。加えてフィンチャーは色調を抑えた暗い画を好んで使うことで、コーエン兄弟とアンダーソンはシンメトリーの構図を多用することで、仕上がりがより冷たい情感になっています。
彼らの作家性の特徴はテレビシリーズの『ハウス・オブ・カード 野望の階段』(2013-)が特にわかりやすい例です。
同作はフィンチャーが製作総指揮として名前を連ねていますが、彼は1stシーズンの第一話と第二話で演出も担当しています。
第二話までと演出が交代する第三話以降は明らかに全体のトーンが違います。客観的で体温の低いフィンチャーに対して三話目以降はもっとオーソドックスな仕上がりになっています。『ハウス・オブ・カード 野望の階段』はシリーズものなので、物語自体のトーンは話数に関わらず同じです。それだけに演出の違いによる情感の違いがよくわかります。
なお、引き画が多ければ必ず体温の低そうな仕上がりになるわけではありません。
日本の監督だと山下敦弘が引きの画を好んで使う監督の例として挙げられますが、『松ヶ根乱射事件』(2006)が冷たい印象を受けるのに対して『天然コケッコー』(2007)はむしろ温かみがあります。引きを主体にすると冷たい情感の話とマッチしやすいが、温かみのある話と相容れないわけではないということです。
二つ目は寄り画を好んで使うタイプ。ジョナサン・デミはこのタイプです。
そして彼の代表作である『羊たちの沈黙』はこのタイプの代表的サンプルでもあります。
なお三つ目としてその中間の中庸を行くタイプが挙げられますが今回の記事の趣旨上、あまり関係ないので割愛します。
統計があるわけではないので断言できませんが一番多いのはこのタイプだと思います。
人物の内面に迫っていく
『羊たちの沈黙』は本当に素晴らしい映画です。アンソニー・ホプキンスの夢にも出てきそうな強烈な演技、それを受け止めるジョディ・フォスターの巧さ。良く練られたストーリー、隅々まで神経の行き届いた設定。テッド・タリーの簡潔な脚色。月並みな表現ですがこういう映画のことを「傑作」と呼ぶのでしょう。ですが、この映画においてジョナサン・デミの的確な仕事も忘れてはいけません。
この映画でのジョナサン・デミの演出について言えることはクローズアップの多さです。