キューブリックとドラン、映画界における新旧ふたりの『天才』を比較・考察
映画は、それを生み出す映画監督の頭の中。彼らの世界であり、彼らが生み出す世界であり、彼の目にうつる世界。
巧みな技術と映像で私たちを驚かせ、新たな世界に引き込んでくれる映画監督たち。今映画界で”若き天才”として注目を浴びているのは、やはりグザヴィエ・ドランではないでしょうか。
「マイ・マザー」で監督、脚本家としてデビュー。その後も「胸騒ぎの恋人」「Mommy」「わたしはロランス」を始めとする作品がヒット。来年にはレア・セドゥやマリオン・コティヤールなどが出演する「たかが世界の終わり」の公開が控えています。
知的で、ファッショナブルで、天才で、しかもイケメン(ゲイ)。色々と完璧すぎるグザヴィエ・ドラン。彼の映画は映像の構図やカメラワークにこだわりがあることで有名ですよね。ある時「マイ・マザー」を観返していて思いました。
「なんだろうこの映像の感じ、どっかで観たことがあるような…。」
そのデジャヴ の原因はこの人でした。「時計じかけのオレンジ」「2001宇宙の旅」でおなじみ、鬼才スタンリー・キューブリック。
カルト的人気を誇る60年代〜90年代に活躍した映画監督です。そのキューブリックの作品と、どことなくドランの作品にかぶるようなところがある気がしまして。全然タイプも時代も違うキューブリックとドランですが、2人の映画の共通点を考えてみました。
キューブックとドランの共通点
奥行きが大好き
ジャック・ニコルソンの狂気に満ちた表情でおなじみのキューブリック作品「シャイニング」。この映画で長い廊下に、かわいらしくも不気味な少女2人がぽつんと立っているシーンは有名ですよね。
「フルメタル・ジャケット」ではヘマばっかりする太った兵隊の横で、みんなで並んで腕立てふせ。この時も部屋が奥へ奥へと続いているような、奥行き感が印象的です。
「わたしはロランス」でも廊下のシーンが多くあったように思えます。家の廊下でロランスが佇み カメラは遠くからおさめる。ロランスが学校の廊下を歩くシーン。主人公を遠くから眺めているかのような、少しひいたショットが多いのがドラン作品の特徴です。
“廊下”ってなんだか不気味なイメージがありませんか?誰もいない放課後の学校、暗い明かりの下の冷たい廊下。自分の足音だけが聞こえる、静かでどこまでも続く廊下。キューブリックはこの廊下の奥行きから私たちの”ゾッとする気持ち””どことなく不快な気持ち”を、ドランはこの長く広い空間に登場人物たちを佇ませることで 彼らの”孤独感”を表現しているのではないでしょうか。
また、この奥行き感のある映像は 私たち観客も映画の世界に入っているような気分になりますよね。廊下や部屋の遠くから、登場人物たちをそっと眺めているかのような。この”臨場感”は、2人の作品両方に通じているかもしれません。
シンメトリーも大好き
先ほどの「シャイニング」で少女2人が佇むシーン。「フルメタル・ジャケット」で太った兵士をを挟んで全員が腕立てをするシーン。「時計じかけのオレンジ」でのオープニング、アレックスの趣味の悪い部屋のシーン。どれも左右対称、シンメトリーな構図です。
ドラン作品もよく見るとシンメトリーの構図のシーンが多々。「胸騒ぎの恋人」では主人公3人が横に並んで座るシーンがとても印象的ですし、「マイ・マザー」では主人公と母親が向いあい食事をするシーンもシンメトリーです。
左右対称。美しく芸術的で完璧で、バランスが保たれている。秩序があるはずなのに、なんだか観ていると居心地が悪くなるような 不思議な気分になりますね。同じものや同じようなものが並んでいる、それだけのことなのに その完璧さが少し不気味で、1つの絵のように私たちの脳裏に焼きつきます。
キューブリックとドランの作品に出てくる登場人物たち。身近なようでいて一風変わってしまっている、何かが壊れたり失ったりしている彼らの中身を このシンメトリーで表しているのかもしれません。
感情移入できない
ドランの作品で、「主人公が全然こっちを見ないなあ」と感じたことはないでしょうか。目を伏せたり、うつむいたり・・・また、背後からのショットが多かったり。主人公たちと同じ景色を同じ目線で見ていても、表情や目線が分からなかったら 何を考えているかは分かりにくいですよね。
主人公の気持ちをたくさん読み取ることができなければ、なかなか感情移入できることはできません。ドラン作品を観ているときは、映画の中の”主人公の周りの人間””通行人A”になったような気分です。
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