本当に映画愛はあるか?私が『ラ・ラ・ランド』に「激おこ」した10の理由

『ラ・ラ・ランド』がミュージカルというジャンルをまとってハリウッド黄金時代へのリスペクトを込めているのは明白だ。「理論的には」、失われたジャンル映画を復活させ、映画の根源的な楽しみを現代に継承させようとしているのだろう。ならば、どうしてハリウッド黄金時代の作品の引用、スタジオ崩壊以降の作品の引用が同居しているのか。
そこに共通点がないわけではない。「カップルが主役の映画」という共通点である(『汚名』は微妙だが、まあ…)。ただし、そのカテゴライズはあまりにも乱暴すぎやしないか?たとえば、『ラ・ラ・ランド』に登場するような名画座が、年代も制作経緯も違う映画を「カップル主演」という括りで上映するだろうか?
それをやってしまうのは、映画館ではなくレンタルビデオショップの発想である。そして、「名作コーナー」の棚にあるDVDを疑いもせず鑑賞し、「やっぱり古い映画はいいなあ」とのたまう従順なショップ会員の感慨である。そこに、「ソフト化されていない傑作映画はいくらでもある」という思考は介在しない。「語り継がれている映画」が「名作」とイコールだとは限らないはずなのに。
そんな程度の映画愛しかないので、ニコラス・レイの傑作が上映されている途中で劇場を抜け出し、ロケ地で乳繰り合うなどという呆れたシーンが登場するのだ。(上映中にフィルムが焦げることなんて珍しいことではないので、中座する理由としては薄弱である。チャゼルはそもそも、映画館で映画を観る習慣があるのか?)全く異なる文脈で制作されたフランス映画もハリウッド映画も、同じ「ミュージカル映画」として雑にまとめられてしまうのだ。たとえば、これがアクション映画なら『燃えよドラゴン』と『コブラ』と『マッドマックス』を「どれも同じアクション映画」で同一視してしまうのは滅茶苦茶だと誰もが思うだろう。『ラ・ラ・ランド』がやっているのはそういうことである。観客も呑気に感動している場合ではない。主役二人の映画愛を疑わなければならず、旧作へのリスペクトの欠如に辟易するべきなのだ。監督の前作『セッション』(’15)も退屈はしなかったが、何かザワザワしたものを感じずにはいられなかった。金がかかっているぶん、『ラ・ラ・ランド』では問題が増長していると見るべきだろう。?
映画愛という名のアトラクション
『ラ・ラ・ランド』はよく言われるように『シェルブールの雨傘』や『雨に唄えば』の影響を受けている。しかし、『シェルブールの雨傘』と『雨に唄えば』の足元にも及ばない。理由は簡単で、『ラ・ラ・ランド』が批評家に媚び、観客をたぶらかし、「それっぽさ」だけに貫かれた似非ジャンル映画だからだ。はっきり言うが、『ラ・ラ・ランド』の映画愛は偽物である。ジャズに関しては枚数を聴いていないので、「売れ筋とはいっても、あの程度の音楽でツアーとか出られるのかね?」くらいの感想しか書けない。しかし、映画については分かる。デイミアン・チャゼルが心の奥では熱い映画愛を抱いていようとも、少なくとも表現のレベルには落としこめていない。
それならば、どうして誰もが『ラ・ラ・ランド』に騙されるのか?似た現象として『ALWAYS 三丁目の夕日』(’05)が挙げられる。公開当時から、多くの映画評論家が『ALWAYS』が描いた昭和を「偽物」として糾弾した。しかし、多くの人が世代を問わず、『ALWAYS』に感動し、映画は大ヒットし、あまつさえ賞まで獲ってしまった。つまり、『ALWAYS』の昭和の再現度など観客にとっては大きな問題ではなく、『ALWAYS』を通して理想の昭和、「昔は良かった」という幻想を積極的にかきたてられることが重要だったのである。乱暴に書けば、観客は「自ら騙されたがっている」のだ。現象としての『ALWAYS』論は切通理作氏の『情緒論 セカイをそのまま見るということ』に素晴らしい考察があるのでおすすめしたい。作品を肯定している立場からの論調ではあるが、違う感想でも心を打つ批評は存在する。『ラ・ラ・ランド』に関してはないけど。
『ラ・ラ・ランド』は、映画ファンが「映画愛」やら「映画やジャズがキラキラしていた頃」やら、実体のない幻想を満喫するためのアトラクションとして機能している。それでもいい、それがいいと言うなら自分は批判しない。ただ、自分はどんなに残酷で、胸が痛くても世界の真実を見続けたいと思う。そして、現代でも鑑賞できる様々な方法を使って、黄金期の映画を劇場で観たいと願う。そのほうが、『ラ・ラ・ランド』やレンタルビデオ店の名作コーナー以上に学べることが大きいからだ。