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『沈黙‐サイレンス‐』スコセッシ監督来日レポ「一番危険なのは、強者至上の世界しか知らない若者世代」

沈黙 マーティン・スコセッシ

遠藤周作の名作『沈黙』をマーティン・スコセッシ監督が完全映画化した『沈黙-サイレンス-』が2017年1月21日(土)より全国公開となる。

1月16日、都内にて来日記者会見を行ったマーティン・スコセッシ監督は、積年の思いを経てようやく完成させた今作への想いやエピソード、今作の重要なテーマである”キリスト教”や”信じる心”について語った。

ネイビー・カラーのスーツで登場したスコセッシ監督。先日の日本人キャストによる記者会見でキチジロー役の窪塚洋介が「そこにいてくれるだけで、演出になる」と表していたように、優しさや柔和さを醸していた。壇上では、安堵したような表情で「ついに夢が叶いました」と語り始める。「長年作りたかった映画と共に、ここに東京に来ることができ…」一度ため息をつくと、「ようやく完成したんです。」と吐露する。

マ-ティン・スコセッシ監督が来日会見 
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遠藤周作『沈黙』との出会い

スコセッシ監督が「とても長いプロセスでした」と振り返るように、『沈黙 ─サイレンス─』がようやく完成するまで、非常に長い月日が流れている。監督が遠藤周作の原作と出会ったのは実に28年前。今日(こんにち)まで監督の中に深く刻まれることとなる、原作との運命の出会いを振り返る。

「1988年に制作した最後の誘惑は、キリスト教の理念をシリアスに探求した作品でしたが、同時に大きな議論も起こしました。当時、様々な宗教団体に向けて上映会を行っていたのですが、エピスコパル教会でポール・ムーア大司教という方から『この作品が問うているものが好きです。あなたには、この本をお薦めしましょう』と与えてくださったのが『沈黙』だったのです。

この本は、”信仰”についての物語。『最後の誘惑』の完成後、世間での宗教的議論を受け、私の中の”信仰”は揺らいでいました。何かがおかしい、そう感じていたんです。

でも『沈黙』を読み、これこそ私が探求すべきものだと感じました。遠藤周作のように、私もその答えを見つけ出さなければならないと。」

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しかし、映画を作り始めるまでには長い時間がかかった。

カトリック思想が強く、神学校で学んだ経験もあるスコセッシ監督だが、『沈黙』はキリスト教文学作品としてこれまでに世界屈指の評価を得ている名著だ。この作品を映像化するにには、「トライ・アンド・エラーの学びの旅」があったと述懐する。

「当時は、この作品をどう作るべきか、どう解釈すべきかがわかりませんでした。私自身の宗教観や疑問、日本文化に対する勉強不足もありました。」

スコセッシ監督が決意を固め、脚本の執筆に本腰を入れて取り組み始めたのは、2003年『ギャング・オブ・ニューヨーク』の頃だったと明かす。

「それまでは、映画化権利を失いたくなかったので、”今書いてますから!”と誤魔化していたんです(笑)。」

マーティン・スコセッシにとっての『沈黙』

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監督は、さまざまな言葉で『沈黙』の『包括性』を表現している。

『『沈黙』は、ドグマ(宗教上の教義)的ではなく、信じることと疑うことを包括的に描いた作品です。”(キリスト教を)疑うのなら、あなたに価値はない”なんてことはありません。私たちは、すべてを疑うのです。自分の人生、存在意義さえもですね。それこそが私を惹きつけ続け、創作意欲をかきたてたものです。」

また、窪塚洋介演じるキチジローの「こんな世界で、弱い者はどうすれば良いのですか?」というセリフを取り上げ、「『沈黙』では、弱き者を拒絶せずに、”弱さ”を受け入れている」と語る。

「弱き者は強くなれるかもしれないし、なれないかもしれない。でも、人が人として生きることの真価を問いているんです。
全ての人間が強くなければならない、なんてことは無いと思います。
弾き出された者、除け者にされた者の存在を、ひとりの人間として知ろうとする。それは、個人レベルで始まることです。」

スコセッシ監督にとって、ひときわ重要な作品となった『沈黙 ─サイレンス─』を、自身はこのように言い表している。

「他の作品よりも重要、と言っては語弊があるが、私たちの存在意義にまつわるこの”問い”に没入していくという意味で、私の中でとても大切な作品です。」

ローマ法王との謁見

世界最高峰のキリスト教文学の映画化とあって、今作はバチカンにてイエスズ会の神父らを集めた特別上映会を行っている。監督は、その際にローマ法王と謁見されたことを振り返る。

「ローマ法王とは小さな部屋でお会いしました。とても柔和な方でした。
法王とは、長崎や、イエスズ教会など、映画に登場する題材についてお話させていただきました。
法王は、この映画が伝えるメッセージが世の中に伝わりますように、と願ってくださいました。」

キリスト教と日本人の宗教観の違い

『沈黙』では、江戸幕府がロドリゴらキリスト教宣教師らに対し暴力をもって徹底的に迫害する様子がショッキングに描かれている。ストーリー上では主人公となるロドリゴに対し、井上や通辞といった日本人側は悪役の配置にはなっているが、監督は冷静に語る。

「ローマで、アジア人のイエスズ会の神父様にお聞きした話です。
拷問は、確かに暴力ではありました。しかし、西洋からやってきた宣教師らも一種の暴力を持ち込んでいたのです。つまり、”あなたたちの真実や文化は無であり、我々こそが真実である”という西洋思想をアジアに持ち込んだことこそ、一種の暴力と言えるでしょう。」

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続けて、『沈黙』作品内での幕府側の視線から、日本人の思惑をこう代弁する。

「この西洋からの暴力に対してできることはただ一つ、彼らの”傲慢さ”を解きほぐすことだったのです。だから、クリスチャンのグループに対してではなく、そのグループのトップにいる者を崩しにかかったのです。」

“傲慢さを解きほぐす” ─ 『沈黙』において、ロドリゴも棄教を迫られるが、その時彼の中で起こったパラダイム・シフトこそ、日本人の美徳観に響いたものだったのではと監督は分析する。

「ロドリゴは、自身の中にあった”誤ったキリスト教”が覆され、空っぽになり、真のキリシタンとして人に仕える立場に変化します。

これこそが、日本のキリスト教徒が心惹かれる、”慈悲心”であったり、すべての人間に十分な価値があるのだという理念だと思います。

日本人は『地震・雷・火事・オヤジ』を恐れるそうですね(笑)。だから、権威的なやり方でキリスト教を説くのではなく、慈悲心や、キリスト教の持つ”女性”性をもって説くのが合っているのでしょう。そこに隠れキリシタンは心惹かれたのではないでしょうか。」

“信じる”ということ

今作で説かれている信仰とは、宗教的な意味だけのものは決してない。監督は、こんな時代だからこそ”信じる心”について考えるべきだと説く。

「今、一番危険に晒されているのは、ここ5年ほどに生まれた若い世代です。勝者が歴史を勝ち取っていく世界しか知らない。世界はそういうものだと思ってしまってはいけません。
また、物質的・技術的になった今の世界だからこそ、人を信じるという心を真剣に議論すべきなのです。」

マ-ティン・スコセッシ監督が来日会見 
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74歳のスコセッシ監督にとって、人生の三割以上その心の中にあり続けた『沈黙』。「この映画はまだ完了したわけではありません。これからも私の人生と共にあり続ける作品なのです。」と愛おしげに語った姿が印象的だった。

日米最高のスタッフのもと、アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバー、リーアム・ニーソンと、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮といった豪華キャストで送るマーティン・スコセッシ監督最新作『沈黙 -サイレンス-』、いよいよ1月21日(土)より全国ロードショー。

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Writer

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中谷 直登Naoto Nakatani

THE RIVER創設者。代表。運営から記事執筆・取材まで。数多くのハリウッドスターにインタビューを行なっています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。