【レビュー】『LOGAN/ローガン』、それは英雄たちのディストピア…拡張を続けるアメコミ映画に逆流する金字塔

もちろん、「劇中に一瞬登場するアイテムが、過去作に関係するものだった」というお楽しみが決して無いわけではないが、それらは本当に背景として徹している。今作は、アメコミ映画の文脈を気にせずとも、他の映画同様に一本の作品として鑑賞できる自然なものなのだ。
「異質」と形容すること自体が間違いなのかもしれない
今作は、「アメコミ映画の常識を突き破った過激な世界観」と宣伝されており、この表現はまさにその通り。マーベル映画としては『デッドプール』(2016)に続くR指定作品で、血しぶき飛び交うダークなバイオレンス作品となっている。「ヒーロー物なのにバイオレンスでグロい」…我々日本人にとっては、「新世紀エヴァンゲリオン」とか「真・仮面ライダー」の衝撃に少しだけ近いものがあるかもしれない。
その過激描写には、「ヒーロー映画でここまでやっちゃっていいんだ」と驚くはずだ。しかし、先述した「アメコミ映画文脈から独立した作品」としての主張を貫くのであれば、「ヒーロー映画なのに」といった前書きすら間違っているのかもしれない。
『LOGAN/ローガン』は、傷を負い続けながらも、その二本足でしっかり立っている作品だ。『LOGAN/ローガン』は『LOGAN/ローガン』なのである。この荒廃したショッキングな世界を嘘偽りなく描き出すためには、血が流れ、身体が切断され、吹き飛ばされる必要がある。
スーパーヒーローだろうがなんだろうが、確かに血は流れるもの。マーベル映画は、「スーパーヒーローだって1人の人間なのである」という世界観を様々な形で伝えてくれるが、今作はそのメッセージを最も血生臭く、ショッキングに、そして自然なやり方で表現しきっている。
ローガンを最後まで守り抜いた宣伝
このように、今作におけるオーガニックな持ち味を、日本の宣伝はとても大切にしてくれていたと思う。
ヒュー・ジャックマン演じる主人公ローガンは、明らかに「ウルヴァリン」としての通名の方が知られているはずだ。「アメコミ映画に馴染みのない客にも…」みたいな視点から、意地悪を言えば『ウルヴァリン -ローガン-』とか『ウルヴァリン -最後の戦い-』みたいな邦題になったっておかしくなかったかもしれない。ところが、邦題はそのまま『LOGAN/ローガン』に。そればかりか、ポスターも作品のイメージを出来る限り守り抜いた硬派な仕上がりに。
『LOGAN/ローガン』は、そのプロモーションにおいても非常に自然だった。おかげで観客も、雑念や”胸のつっかえ”無しに、自然に鑑賞することができるというものだろう。
ネオ・ウェスタン ─ 英雄たちのディストピア
『LOGAN/ローガン』では、一貫して退廃的でショッキングな世界観が繰り広げられる。「こんなスーパーヒーロー映画は嫌だ:年寄りになったヒーローが老々介護をしている / ヒーローなのに街のチンピラにボコられる」みたいな、一度でも『X-MEN』シリーズを観たことがあるなら「うそだろ…?」「これがあの…?」と感じさせる、言わば「バッドエンド」状態からスタートするのだ。
そこには、コスチュームに身を包んだスーパーヒーローは存在しない。世界を滅ぼそうとする邪悪なヴィランすらも存在しない。あるのはただの虚無だけ…。そんな乾ききった延命世界で、ローガンは生きる目的を失っている。
映画序盤、ローガンはリムジンの運転手として働いていることがわかる。リムジンと言うと華やかなイメージがあるかもしれないが、劇中ではローガンが乗客からのオーダーをスマホのアプリで受信する場面がある。これはアメリカはじめ世界で定着している『Uber(ウーバー)』や『Lyft(リフト)』といった配車サービスを彷彿させるものだ。
ドライバーは、アプリで位置情報を送ってきた乗客を拾い、目的地まで送り届けることで報酬を得る。海外ではローガンのようにドライバー専門で「本業」とする人もいれば、空いた時間を利用した副業感覚の人もいる。ちなみに本業としては(もちろん人によりけりだが)「頑張れば全然稼げるが…」といった感覚らしい。裏を返せばその収入は外的要因に依存しやすい、とても不安定な仕事。かつてのスーパーヒーロー、ローガンが今や配車サービスアプリ頼みの危うい生活にすがりついていたというのがショッキングだ。
また本作は、明らかに西部劇をモチーフとする部分がある。劇中でも1953年公開の『シェーン』が取り上げられており、「戦いを終えた英雄と1人の少年(または少女)」という構図を『シェーン』と共有していることから、『LOGAN/ローガン』を「ネオ・ウェスタン」と呼ぶ声もある。(そう、『LOGAN/ローガン』にも銃やカウボーイ・ハット、農家、馬といった西部劇的モチーフが多数登場する。)