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【レビュー】『LOGAN/ローガン』、それは英雄たちのディストピア…拡張を続けるアメコミ映画に逆流する金字塔

2017年6月1日、『X-MEN』ウルヴァリンことローガン最後の生き様を描く映画『LOGAN/ローガン』が待望の封切りとなった。
筆者も初日夜の回に早速鑑賞。これまでのどのヒーロー映画とも異なる硬派でオトナ向けな仕上がりに感嘆し、思わず筆を執った次第である。

「17年にわたるヒュー・ジャックマンの『X-MEN』”ウルヴァリン”最終作で…」「マーベル映画として珍しいR指定作品で…」本作は様々な語り口から紹介することができるだろう。しかしこのような手法では、良くも悪くも「アメコミ映画としての文脈」を逸することができないことが、こと『LOGAN/ローガン』については惜しい。何故なら、本作は『X-MEN』シリーズの魂を硬く継ぐまぎれもない「アメコミ映画」ではあるが、同時に、『LOGAN/ローガン』という名で荒野にそびえ立つ、一作の力強い映画なのである。既に本作を鑑賞した方なら、「この作品をアメコミ映画の文脈だけで語るのはもったいない」という主張にも賛同いただけるはずだ。

©2017Twentieth Century Fox Film Corporation
©2017Twentieth Century Fox Film Corporation

この映画には、ツヤツヤでテラテラのコスチュームに身を包んだスーパーヒーロー・チームが、街を破壊する強大な敵から世界を守るといった場面は登場しない。その代わり登場するのは、年老いた男の汗と血、吹きさらしの荒野をジャリジャリと進む車、生身の人間として男たちを追う冷酷な追跡者、そして、もはや歩くことすらままならない壮年のヒーローに”希望”を抱かせる謎の少女…。「マーベルのヒーロー映画」とは(良い意味で)およそ形容しがたい、どこまでもオーガニックな作品に仕上げられている。

筆者は、本作およびその周辺には3つの「自然さ」が宿されていると感じた。一つずつご紹介したい。

『LOGAN/ローガン』に宿す自然さ

アメコミ映画文脈から最も独立したアメコミ映画

基本的にマーベル映画には『X-MENユニバース』と『マーベル・シネマティック・ユニバース』の二軸が存在する。どちらも世界観を拡張し続けており、「あれもこれも繋がる」「アイツとコイツが相まみえる」といったクロスオーバーのお楽しみはファンにとって非常にエキサイティングなものだ。
一方、マーベル映画をそこまでフォローしていない観客にとっては「よくわからない」「めんどくさそう」と入り口を狭める雰囲気も作りかねない。そのためか、近年のマーベル映画は、「これまでのシリーズを観ていなくても充分楽しめますよ」と言いたげに、両手を広げたような作品も目立ったのではないだろうか。たとえば、あなたがマーベル映画ファンなら、『アントマン』(2015)や『ドクター・ストレンジ』(2017)などについて、「これ単体でも面白いよ!」と友人や家族に薦める場面はないだろうか。

『LOGAN/ローガン』は、その傾向の中でも最も独立した作品になっている。もちろん、「ウルヴァリンって誰?」「このおじいちゃん(チャールズ)って何した人?」というレベルまで知らない観客にとっては難しいだろうが、『X-MEN』シリーズ作はこれまで幾度となく地上波放映されているので、「ウルヴァリンって、あの爪で戦う野性的なヒーローのことね」「スキンヘッドで車椅子のおじさんがすごく強いんだよね」くらいだけでも知っておけば、『LOGAN/ローガン』にはすぐに感情移入することができる。

「これ単体でも楽しめるよ」型のマーベル映画は、他のシリーズ作との関連性を匂わせる演出が巧みだった。それらは「知らなくても問題ないけど、知っているとより楽しい」程度の取り扱いだった。しかし、その「知ってなくても問題ないけど」要素が、たとえ一瞬であれ、なんだかんだ割と全面的に登場したり示唆されたりする。ところが『LOGAN/ローガン』では更にさり気ないエッセンス程度のものとして取り入れられている。

筆者はマーベル映画をはじめとしたアメコミ映画の「知らなくても問題ないけど、知っているとより楽しい」文化をそのまま楽しんでいるが、一方で「知らなくても問題なかったけど、知っていればもっと楽しかったの?つまり、自分はウンチク知識が無いために何だか損をしていたの?」といった少し寂しい思いをしている観客も少なくないはず。もし、アメコミ映画をとっつきにくいと感じている方がいるのであれば、『LOGAN/ローガン』はそういった心配がほとんど無いという事をお伝えしたい。

もちろん、「劇中に一瞬登場するアイテムが、過去作に関係するものだった」というお楽しみが決して無いわけではないが、それらは本当に背景として徹している。今作は、アメコミ映画の文脈を気にせずとも、他の映画同様に一本の作品として鑑賞できる自然なものなのだ。

「異質」と形容すること自体が間違いなのかもしれない

今作は、「アメコミ映画の常識を突き破った過激な世界観」と宣伝されており、この表現はまさにその通り。マーベル映画としては『デッドプール』(2016)に続くR指定作品で、血しぶき飛び交うダークなバイオレンス作品となっている。「ヒーロー物なのにバイオレンスでグロい」…我々日本人にとっては、「新世紀エヴァンゲリオン」とか「真・仮面ライダー」の衝撃に少しだけ近いものがあるかもしれない。

その過激描写には、「ヒーロー映画でここまでやっちゃっていいんだ」と驚くはずだ。しかし、先述した「アメコミ映画文脈から独立した作品」としての主張を貫くのであれば、「ヒーロー映画なのに」といった前書きすら間違っているのかもしれない。

『LOGAN/ローガン』は、傷を負い続けながらも、その二本足でしっかり立っている作品だ。『LOGAN/ローガン』は『LOGAN/ローガン』なのである。この荒廃したショッキングな世界を嘘偽りなく描き出すためには、血が流れ、身体が切断され、吹き飛ばされる必要がある。
スーパーヒーローだろうがなんだろうが、確かに血は流れるもの。マーベル映画は、「スーパーヒーローだって1人の人間なのである」という世界観を様々な形で伝えてくれるが、今作はそのメッセージを最も血生臭く、ショッキングに、そして自然なやり方で表現しきっている。

ローガンを最後まで守り抜いた宣伝

このように、今作におけるオーガニックな持ち味を、日本の宣伝はとても大切にしてくれていたと思う。
ヒュー・ジャックマン演じる主人公ローガンは、明らかに「ウルヴァリン」としての通名の方が知られているはずだ。「アメコミ映画に馴染みのない客にも…」みたいな視点から、意地悪を言えば『ウルヴァリン -ローガン-』とか『ウルヴァリン -最後の戦い-』みたいな邦題になったっておかしくなかったかもしれない。ところが、邦題はそのまま『LOGAN/ローガン』に。そればかりか、ポスターも作品のイメージを出来る限り守り抜いた硬派な仕上がりに。

©2017Twentieth Century Fox Film Corporation
©2017Twentieth Century Fox Film Corporation

『LOGAN/ローガン』は、そのプロモーションにおいても非常に自然だった。おかげで観客も、雑念や”胸のつっかえ”無しに、自然に鑑賞することができるというものだろう。

ネオ・ウェスタン ─ 英雄たちのディストピア

『LOGAN/ローガン』では、一貫して退廃的でショッキングな世界観が繰り広げられる。「こんなスーパーヒーロー映画は嫌だ:年寄りになったヒーローが老々介護をしている / ヒーローなのに街のチンピラにボコられる」みたいな、一度でも『X-MEN』シリーズを観たことがあるなら「うそだろ…?」「これがあの…?」と感じさせる、言わば「バッドエンド」状態からスタートするのだ。

そこには、コスチュームに身を包んだスーパーヒーローは存在しない。世界を滅ぼそうとする邪悪なヴィランすらも存在しない。あるのはただの虚無だけ…。そんな乾ききった延命世界で、ローガンは生きる目的を失っている。

映画序盤、ローガンはリムジンの運転手として働いていることがわかる。リムジンと言うと華やかなイメージがあるかもしれないが、劇中ではローガンが乗客からのオーダーをスマホのアプリで受信する場面がある。これはアメリカはじめ世界で定着している『Uber(ウーバー)』や『Lyft(リフト)』といった配車サービスを彷彿させるものだ。
ドライバーは、アプリで位置情報を送ってきた乗客を拾い、目的地まで送り届けることで報酬を得る。海外ではローガンのようにドライバー専門で「本業」とする人もいれば、空いた時間を利用した副業感覚の人もいる。ちなみに本業としては(もちろん人によりけりだが)「頑張れば全然稼げるが…」といった感覚らしい。裏を返せばその収入は外的要因に依存しやすい、とても不安定な仕事。かつてのスーパーヒーロー、ローガンが今や配車サービスアプリ頼みの危うい生活にすがりついていたというのがショッキングだ。

また本作は、明らかに西部劇をモチーフとする部分がある。劇中でも1953年公開の『シェーン』が取り上げられており、「戦いを終えた英雄と1人の少年(または少女)」という構図を『シェーン』と共有していることから、『LOGAN/ローガン』を「ネオ・ウェスタン」と呼ぶ声もある。(そう、『LOGAN/ローガン』にも銃やカウボーイ・ハット、農家、馬といった西部劇的モチーフが多数登場する。)

『シェーン』をオマージュし、ネオ・ウェスタンとしての風体を纏うことにより、『LOGAN/ローガン』はふたつの美しさを得ることに成功している。

ひとつは、継承する美しさだ。西部開拓時代後、目的を失ったガンマンたちのように、『LOGAN/ローガン』も戦う日々を終え、傷跡と悲しみだけが残り、生きる目的を失っている。そこに登場する謎の少女ローラに、ローガンと特にチャールズは無垢なままであって欲しいと願ったはずだ。血にまみれた辛い思いをするのは自分たちだけでよい、願わくば子供たちには痛みや悲しみとは無縁であって欲しい…。これは、『シェーン』で示唆される「善」を次世代へ継承するという美しさを共有している。

そしてもうひとつは、終焉を迎える直前の、ほんの最後に香りを立てる美しさ。『LOGAN/ローガン』は、明らかに「何かが終わる」ことを全編通じて示唆し続ける。かつて共に戦ったミュータントはいなくなり、自分たちがついえれば、ひとつの時代が幕を下ろす。ローガンとチャールズは、西部開拓時代後のガンマンであり、明治維新後の侍なのである。時代が変わったのだとしたら、きっと自分たちはその「後処理」の一部なのだろう。ローガンもそう自覚していたはずだ。

ローガンを演じるヒュー・ジャックマンに、チャールズ・エグゼビアを演じるパトリック・スチュワートも、この仕事が今作で最後であることを公言している。『LOGAN/ローガン』上映中のスクリーンからは、なんだか形容しがたい、しかし「終焉」とか「死」に近いものと直感できる何かの存在に気付くだろう。終焉の直前、それは不思議なほどに美しい。

©2017Twentieth Century Fox Film Corporation
©2017Twentieth Century Fox Film Corporation

終わらせる、という勇気

さあ、マーベル映画の世界はまだまだ広がり続けるぞ!と活気にあふれる一方で、「”ウルヴァリン”シリーズを終了させる」ということがどれだけの勇気と決断力を要したことか。他作品とのクロスオーバー要素を極力廃し、一本の単作として磨きに磨いた傑作『LOGAN/ローガン』は、拡張し続けるユニバースに「ちゃんと終わりを作る」という、至極当たり前ながら、されどよもや多くの人が忘れかけていたであろう生命的な提案を行っている。「あれもこれも」といった感覚はなく、ただ目の前の一本に没頭できる感覚、そして長年続いた1人の男の物語がどのように終わっていくのかを”見届ける”権利を観客に与えているのだ。

『LOGAN/ローガン』は、史上最もオーガニックでオーセンティックなアメコミ映画でありながら、アメコミ映画のくくりにしたまま放っておくことはできない、重厚でハードボイルドな一作だ。観終えた後は、「良いものを観た」と全身にズッシリのしかかるものがあるはず。

鑑賞後には、過去作やその劇中写真などを見て欲しい。「在りし日だ…」「若い頃はこんな時代も…」と、突然遠い昔のように懐かしく感じさせられたら、それはローガンがあなたの胸にしっかりと三本の爪痕を残してくれた証拠だろう。

映画『LOGAN/ローガン』は2017年6月1日(木)より公開中。

 

Writer

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中谷 直登Naoto Nakatani

THE RIVER創設者。代表。運営から記事執筆・取材まで。数多くのハリウッドスターにインタビューを行なっています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。