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【考察】『ムーンライト』のハスラー描写から考える、アメリカにおける人種表現の「捻れ」について

この記事では、映画『ムーンライト』について考察する。

【注意】

この記事には、映画『ムーンライト』の内容に触れています。

ムーンライト
© 2016 A24 Distribution, LLC

グリルが呼び起こした「捻れ」の感覚

『ムーンライト』でもっとも印象に残ったシーンはどこかというと、成人した主人公、シャロンが旧友と再会した飲食店で、食事する前に金のグリル(歯のアクセサリー)を外すところである。それは、「今までハスラーとして生きてきたシャロンが、素顔の自分に戻っていくシーンだから」ではない。ハスラーにグリル、という記号的な表現が堂々と採用されていることへの驚きからである。

誤解なきよう書いておくが、別にこのシーンだけを取り上げて『ムーンライト』が陳腐な映画だと言いたいわけではないし、金のグリルという小道具が選択されていたことを欠点だとも思っていない。ただ、アメリカの黒人貧困層の現実を徹底してリアルに描いてきた物語の中に、あからさまな記号が飛び込んできたことで、自分はある種の「捻(ねじ)れ」を感じてしまったのだ。シャロンが車内で流すラップ・ミュージックや首から提げたネックレス以上に強烈な視覚効果がある分、グリルが自分に及ぼした「捻れ」は鑑賞後も説明し難いノイズとして自分の脳内に留まっていた。

鑑賞からしばらく経ち、ようやくその「捻れ」を言葉に換えられるようになったのは、『ラップは何を映しているのか――「日本語 ラップ」から「トランプ後の世界」まで』(毎日新聞出版/大和田 俊之, 磯部 涼, 吉田 雅史)を読んだからである。 

『ラップは何を映しているのか』から考える黒人像のステレオタイプ

本書の内容はラップ・ミュージックを通して現代アメリカや日本を見つめていく対談本だが、非常に興味深いキーワードとして「オーセンティック(真正な)」、「コンシャス(意識的な)」という形容詞が連発されていく。いずれもラップ・ミュージックのリリック(歌詞)を評価する表現であるのと同時に、黒人ラッパーが世間に見せる姿勢への評価でもある。いかに音楽に対して「オーセンティック」であり、政治的に「コンシャス」であるかを証明できるかがラッパーの成功の鍵となるのである。

興味深いのは、ラップ・ミュージックにおいて「オーセンティック」であるという状態は、決して生真面目に内省したり、社会的メッセージを発したりするのと同義ではないことだ。ハスリングやセックスについてセルフボースト(自己顕示)するギャングスタ・ラップも「オーセンティック」な姿勢としてリスナーから受け入れられるのである。
では、ここでいうリスナーとは誰か?黒人ラッパーは同じ黒人に対して「オーセンティック」だと証明しているとは限らない。アメリカの黒人人口は全体の12パーセント程度である以上、黒人ラッパーが商業的に成功を収めるためには白人からの評価を得る必要がある。つまり、黒人ラッパーが進んで白人の想像するステレオタイプな黒人像を演じる、という「捻れ」が発生する。ギャングスタ勢はもちろんだが、ケンドリック・ラマーのように「コンシャス・ラップ」の代名詞として大絶賛を受けたラッパーもまた、こうした「捻れ」から完全に脱却してはいないのではないか。そんな風に本書では斬新な議論が繰り広げられる。

ケンドリック・ラマー

そして、『ムーンライト』におけるシャロンの生き様にも同じ、黒人が忌み嫌っているはずのステレオタイプに自ら歩み寄っていくという「捻れ」が感じとれる。ならば本書の論点は、ブラックカルチャーやアメリカ社会全体にも当てはまる可能性がある。

『DOPE/ドープ!!』と『ストレイト・アウタ・コンプトン』との比較

しかし、シャロンが自己顕示する必要があったのは、地元のハスラー仲間や顧客に対してであり、言うまでもなく彼らは全員黒人だ。その点で「黒人から白人へのセルフボースト」が盛んに行われている商業的ラップ・ミュージックの世界とは一致しない、という批判もあるだろう。その点について答えていく。

『ムーンライト』と同じく、黒人貧困層の現実を描いた近作のアメリカ映画として『DOPE/ドープ!!』と『ストレイト・アウタ・コンプトン』が挙げられる。それぞれロサンゼルス、コンプトンという違いはあるが、カリフォルニア州を舞台にしたスラムのドラマという点では一致している。ただし、『ムーンライト』は東海岸を舞台にした物語なのでこれら2本とは全ての条件が一致しているというわけではないが、ハスリング描写が登場する黒人映画として比較は可能だろう。

『ストレイト・アウタ・コンプトン』がラップ・グループN.W.Aのセルフボーストに貫かれ、セックスやバイオレンス満載の誇張された自伝映画であるのに対し、『DOPE/ドープ!!』はややメタフィクション的な内容となっている。登場するのはスラムの少年少女たちだが、彼らはラップを愛好していないし、不良でもない。パンクバンドを結成し、チェックのシャツやジーンズに身を包んだナードたちである。『ストレイト~』に代表される黒人主導によるステレオタイプな黒人像の拡大に異議を唱えるストーリーになっているのだ。これは『ストレイト~』のプロデューサー、アイス・キューブやドクター・ドレー(いずれも元N.W.A)と『DOPE/ドープ!!』の製作総指揮、ファレル・ウィリアムスの音楽性の違いだともいえる。

しかし、安易に『DOPE/ドープ!!』のほうがコンシャスで正しい現状認識を行っていると決めつけるのは早計だろう。黒人貧困層への理解という点では、両者に優劣があると思えない。フィクションに置換する際にセルフボーストの道を選ぶか、コンシャスな道を選ぶかという発想に分かれただけだ。

一方、『ムーンライト』はより中道を行く表現で黒人貧民層の現状を描写していく。ハスラーたちを美化することもなければ、過剰にコンシャスなアピールもない。監督がウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』からの影響を口にしていることからも分かるように、シリアスなラブストーリーとして鑑賞することも可能だろう。しかし、ここで注目したいのは『ムーンライト』のプロデューサーチームに1人として黒人がいないことである。つまり、『ムーンライト』は黒人若手監督のバリー・ジェンキンスが白人敏腕プロデューサー(と製作総指揮のブラッド・ピット)に囲まれて完成させた作品だということだ。ちなみに、ブラッド・ピットを含む本作プロデューサーのうち3人は、黒人奴隷を主人公にした『それでも夜が明ける』(2013年度アカデミー作品賞)製作にも名を連ねている。

結論:現実とフィクションの混濁

先に述べておくが、自分は「だから『ムーンライト』は白人に媚びたフェイクである」などと安っぽい結論に結び付けたいわけではない。監督が自らの生まれ故郷での実体験をベースにして作り上げたという経緯も信用できるものだろう。ただし、黒人セレブが製作に入った『ストレイト・アウタ・コンプトン』や『DOPE/ドープ!!』よりも、シリアスなタッチで黒人の現実を映し出した『ムーンライト』が、白人セレブによって製作されていたという事実は一考の価値があると思うのである。この事実を踏まえれば、成人したシャロンのセルフボーストは劇中の黒人仲間だけでなく、映画を鑑賞する白人の視点に対しても行われていると解釈できないだろうか。

ムーンライト
© 2016 A24 Distribution, LLC

『ムーンライト』の「捻れ」は製作過程も含め、白人のフィクションが黒人のリアルに侵食したアメリカの現在を映し出している。シャロンがハスラーの記号に身を包み、高級車を乗り回してリバティ・シティを走る姿は白人が思うステレオタイプと合致する。しかし、それはリバティ・シティ出身のジェンキンス監督の記憶によるものなのか、今を生きる黒人貧困層にとってのリアルなのか、ブラックカルチャーのクリシェなのか、白人の生み出した幻影なのか、もはや境界線を失って混濁している。そして、その混濁は怯える少年の心を抱いたままハスラーになってしまった主人公の自己不一致感と重なり合っていく。現代アメリカにおける人種描写の変容、混濁の象徴があのグリルだったのだ。

Eyecatch Image:© 2016 A24 Distribution, LLC

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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