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『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』公開前に!愛憎ドキュメンタリー『ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス』はファンの映し鏡?

Quark Films

まあ当然4-5-6-1-2-3で観るべきだけど新三部作の微妙さを楽しむためにドキュメンタリー映画『ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス』を6のあとに挟むか、いっそのことそっちを最初に観るパターンもありだ

新三部作が微妙だと言っても古参ファンではない世代からすればそこまで悪くないので観もせずに知ったふうな口は利くな

リアルタイムでない世代としての『スター・ウォーズ』の語り方を我々はすべきだってことを自覚してほしい!!

 (神林しおり『バーナード嬢曰く。』3巻より)

以上、読書をテーマにしたコミック『バーナード嬢曰く。』の引用だ。SFファンの女子高生、神林しおりが「世代じゃないからうるさくない」と前置きしたうえで『スター・ウォーズ』について語りだした内容である。主人公、町田さわ子が心の声で「……うるさい」と呆れるのに笑ってしまった。

つまり、ファンとはうるさい人種なのだ。ただでさえうるさいので『スター・ウォーズ』シリーズのような特大コンテンツともなれば、それはもう限界までうるささを極めたような人々が世界中にゴロゴロしている。神林の台詞にある『ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス』(2011)の「ピープル」とはそんな最高クラスにうるさいファンたちの総称だ。シリーズ最新作『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』公開までのカウントダウンが始まった今、観ておいて損はないドキュメンタリーである。しかし、なぜ「vsジョージ・ルーカス」なのか?

(編註:日本の劇場公開当時は『ピープルVSジョージ・ルーカス』だったが、現在では「ザ」が付けられている。)

非難轟々の創作者ジョージ・ルーカス

実は、本作は世界中の『スター・ウォーズ』ファンによる、創作者ジョージ・ルーカスへの恨み節であふれている。彼らは作品が嫌いでルーカスを攻撃するわけではない。むしろ、その愛は本物である。登場するファンたちは『スター・ウォーズ』グッズに囲まれた部屋で暮らし、カメラの前で情熱的に作品の魅力を称える。彼ら全員が『スター・ウォーズ』に人生を変えられた存在なのだ。

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だからこそ、彼らは口々にルーカスの罪状を紹介していく。たとえば、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(1977)でハン・ソロが自分を追ってきた賞金稼ぎを撃つシーンだ。1977年公開当時、ソロは目にも止まらぬ早撃ちで相手を瞬殺している。しかし、「特別篇」として1997年に公開されたバージョンでは、ソロより先に賞金稼ぎが発砲しているのである。手が届くほどの至近距離でありながらソロは無傷で撃ち返す。この改変に関してルーカスは「ソロを殺人鬼にしたくなかった」と説明している。しかし、ハン・ソロのハードボイルドなキャラクターを印象づけるシーンだったゆえにファンが納得するはずもない。

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特別篇とはいえ旧三部作でも批判されるのだ。案の定、新三部作はファンから罵詈雑言の嵐を浴びせられる。『エピソード1/ファントム・メナス』(1999)から登場するジャー・ジャー・ビンクスの能天気さはシリーズの雰囲気にそぐわないとして反感を買う。『エピソード3シスの復讐』(2005)のクライマックスでダース・ベイダーとなったアナキン・スカイウォーカーが“NO!”と絶叫するシーンは失笑ものだ。いや、人によっては旧三部作の完結篇『エピソード6ジェダイの帰還』(1983)さえも認めてはいない。 

「映画とは誰のものなのか」という疑問

彼らの主張をわがままで理不尽に思う人もいるだろう。事実、『スター・ウォーズ』ほどの人気シリーズで、これほどまでのヘイトを集めている実作者は類を見ない。ルーカスと同世代のフランシス・フォード・コッポラも『ゴッドファーザー PARTⅢ』(1990)の評価は芳しくなかった。スティーヴン・スピルバーグの『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(2008)も、シリーズ第4作目にして息切れの感は否めなかった。しかし、コッポラもスピルバーグもファンから支持を失わず今日まで至っている。むしろ、彼らの新作が興行的に、批評的に失敗してもファンだけは擁護し、新作を期待してくれるだろう。

ここまでルーカスとファンの関係がこじれたのは、『スター・ウォーズ』が「特別篇」をはじめとして、あまりにもオリジナルからの改変を繰り返したシリーズだからだ。そして、改変の理由はルーカスの創作者であるがためのこだわりや、レイティングを考慮した事情など、ファンの気持ちを無視したものだった。ルーカスからすれば「『スター・ウォーズ』を作ったのは俺だ!どうしたって勝手じゃないか」という揺るぎない思いがあるだろう。しかし、『スター・ウォーズ』はルーカスだけの手に留めておくにはあまりにも人気が拡がりすぎた。もはや宗教の域に達しているといっていい。そして、いかなる宗教であっても、教典を書き換えることなど許されない。たとえ、書き換えたがっているのが教祖だとしても。 

『ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス』は「映画とは誰のものなのか」という本質的な疑問を投げかけてくる。実作者を執拗に攻撃する一方で、本作のファンたちはルーカスへの信頼を完全に捨て去れない。観客が彼らの行き過ぎた愛情に呆れながらも、なぜか胸が熱くなるのは、これほどまでに人の心を狂わせる映画という存在そのものに感動を覚えるからだ。きっと『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』も多くの賛否両論を巻き起こすだろう。しかし、ファンは知っている。一番耐えられないのは『スター・ウォーズ』がない人生であり、彼らにとっては愛も憎しみも同義なのである。そして、彼らの複雑な生態こそ、全ての映画ファンの映し鏡といえるだろう。

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。