【徹底考察】『沈黙 ‐サイレンス‐』が問うそれぞれの信仰のかたち ─ カトリック教徒の見地から

遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督作品『沈黙‐サイレンス‐』が公開された。
162分という長尺、窪塚洋介やイッセー尾形といった日本人俳優たちの活躍、そしてなによりも、スコセッシ監督の『沈黙』に対する、信仰に対する想い。あらゆるエッセンスがギュッと凝縮されたような3時間弱は、観る者の魂を揺さぶる。
ロドリゴが見出した信仰の姿とは何だったのか?殉教者たちが信じたものは何だったのか?神の愛とは?カトリック教徒である自分にとって、『沈黙‐サイレンス‐』がどのように映ったのかを記していきたい。
『沈黙‐サイレンス‐』あらすじ
17世紀、過酷なキリシタン弾圧が行われていた日本で遂に棄教したという師の真相を確かめるため、若き宣教師ロドリゴとガルぺはポルトガルから日本へと渡ることにする。2人は旅の途上で出会ったキチジローを案内で長崎へとたどり着き、隠れキリシタンたちへの布教活動を開始する。やがて村にも迫害の手は伸び、様々な日本人と関わる中で、ロドリゴの信仰心は揺らいでいく。
【注意】
この記事には、映画『沈黙 -サイレンス-』に関するネタバレ内容が含まれています。
「この国は沼地だ」
目の前で何人もの信者が殉教していき、共に日本へやってきたガルぺまでもが命を落としたのを見てもなお、キリスト教の普遍性を信じ続けるロドリゴは、かつての師であるフェレイラと対面する。フェレイラはロドリゴに語りかける。「この国は沼地だ。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる」……日本の信者たちが認識している”神”は、我々の”神”とは違うものだ、と。
このシーンに至るまでの間にも、”沼地”を思わせる描写はあった。赤子に洗礼を授けてもらった夫婦は、「これで私たちはパライソにいるのですよね」と発言し、苛立ったガルぺに否定される。また、キチジローに裏切られ捕らえられたロドリゴが遭遇した信者の女は、「殉教して行くパライソは素晴らしいところなのですよね?」とロドリゴに尋ねる。ロドリゴはしばし絶句するものの、結局はその発言を肯定する。
これは、日本の信者たちにとってのパライソ(天国)が、仏教的な輪廻転生の感覚に基づいていることを示している。「信じる者に対して、天の国は開かれている」というキリスト教の考え方が、これらの日本人たちのセリフの中では浄土真宗的な意味合いを帯びている。悲観的な状況において、死後の世界に救いを求めるのは仕方がないとはいえ、やはりキリスト教の感覚で聞くと違和感があるのは否めない。なぜならば、キリスト教でいう「天国」=「神の国」とは、死んでから行く場所という意味合い以上に、(私の理解では)もっと観念的なものだからだ。
ルカ福音書の中に、「「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。 実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(17章20節~21節)という記述がある。神の国とは、常に求め続け、願い続けているべきものであり、つまりは信仰によってもたらされる心の平安と喜びに他ならない。そこで意識されるのは、あくまでも”私”と”神”との1対1の関係。どのような責め苦に遭おうとも、信仰を持ち続けることで常に神の国は開かれ、喜びのうちに生きていくことができる……というイメージだ。よって、殉教者たちの胸の内としては、「こうして死ねば神の国に行くことができる」の前に、「どのような境遇にあっても、主を信じ、主の愛を感じ、神に仕える」であるはずなのだ。
結果は不問。すべては神の御心なのだから、という境地。この、「絶対的指針としての”神”という概念が日本人の彼らには理解できない」というのが、フェレイラの主張なのだろう。これは、キリスト教が常に直面してきた「インカルチュレーション(文化的受容)」の問いに他ならない。
フェレイラと『荒野の誘惑』
迫害されたキリシタンたちの惨状を目にして、ロドリゴは当然の疑問を持つ。「なぜ神は沈黙するのか」という問いだ。
フェレイラは、2度にわたってロドリゴの説得に当たるが、こうしたフェレイラの行動に、『荒野の誘惑』における悪魔の姿を重ねてしまうキリスト教徒は多いだろう。(『荒野の誘惑』:40日間、何も食べていないイエスに対して悪魔が提示する3つの誘惑と、イエスの拒絶が描かれる)
悪魔の誘惑は、「なぜ神は沈黙するのか」という疑念に通じるものだ。苦しみ抜いているロドリゴにとって、フェレイラの語りかけは(見ようによっては)説得力のある誘惑だといえるだろう。棄教を促すフェレイラは、ロドリゴの心を大きく揺さぶる。動揺しつつも最初はハッキリと拒絶したロドリゴだったが、目の前で吊るされる信者たちを前にして、遂に「転ぶ」ことになる。すると、それまで沈黙していた声がようやく聞こえる。「踏むがいい」。