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【解説】『サバービコン 仮面を被った街』が描く「凡庸な白人家庭」が恐怖したものとは

サバービコン 仮面を被った街
© 2017 SUBURBICON BLACK, LLC. ALL RIGHTS RESERVED. 

「やっぱり、おうちがいちばん」
映画『オズの魔法使』(1939)より主人公ドロシーの台詞

1950年代のアメリカを象徴する映画作品のひとつがミュージカル『オズの魔法使』である。戦前に公開された本作はリバイバル上映やテレビ放映を繰り返され、『風と共に去りぬ』(1939)に並ぶ「アメリカ人の心の一本」になっていく。カラー画面の鮮やかさを活かした映像や使用楽曲の完成度がアメリカ人の心を打ったのは間違いない。しかし、それ以上に、ヒロインが「虹の彼方」を目指して旅を続け、最後に「おうちがいちばん」と宣言する物語が中流層の琴線に触れたのだ。

第二次世界大戦と朝鮮戦争を終え、冷戦による東側社会との対立が激化していたアメリカの50年代。国内ではナショナリズムが高揚し、「アメリカ人としての誇り」が叫ばれるようになっていた。そして、中流以上の豊かなライフスタイルが奨励され、「リッチで知的な文明人」のイメージに近づこうとする国民が増えていく。それにともない、自動車や電化製品といった産業が猛烈な勢いで発展する。そう、中流階級にとって「おうちがいちばん」とは、単なるまじないの言葉ではなかったのである。

ジョージ・クルーニー監督『サバービコン 仮面を被った街』でも『オズの魔法使』は引用されている。しかし、冷酷な強盗たちが口にするジョークのネタとして。

サバービコン 仮面を被った街
© 2017 SUBURBICON BLACK, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

本作は1950年代を舞台に、架空の住宅街「サバービコン」で起こる騒動を描いたブラックコメディだ。冒頭、サバービコンの宣伝映像が流れてくる。アメリカ中の家族が、豊かで平和な生活を求めてサバービコンに移住してくる、という内容である。ニューヨーク、オハイオ、ミシシッピ…サバービコンに暮らす家族の出身はさまざまだ。サバービコンに辿り着けば、地元では手に入らない幸福が待っている、と映像は人々に語りかけてくる。しかし、あまりにも作り物めいた映像にはひとつだけ違和感があった。有色人種がどこにも出てこないのだ。

黒人一家の登場で白人たちが恐れたもの

1950年代、アメリカ南部ではジム・クロウ法による人種隔離政策が一般的に行われていた。白人と黒人は居住区も、利用可能な公共施設も別。教育も職場も別。バスに乗っても、白人の座席と黒人の座席は隔てられていて当たり前。このあたりの事情は近作だと『ドリーム』(2016)に詳しい。当時のアメリカは国家が一丸となり、「アメリカ人の誇り」を形成していた。しかし、それはあくまで白人中流層にとってのアメリカに過ぎなかった。「豊かさ」から外れた低所得者層や、権利が認められていなかった有色人種は、アメリカ社会で居場所を失っていったのだ。

 『サバービコン』では、自らが「アメリカ繁栄の一部」であると信じて疑わない住民たちに波紋が広がる。なんと、サバービコンに黒人のマイヤーズ家が引っ越してきた!緊急会議を開き、白人たちは口々に叫ぶ。「黒人と住みたくてここに来たんじゃない!」宣伝映像の穏やかな住人たちは見る影もない。会議は事なかれ主義のまま終わるものの、それで白人たちは納得するはずもなく、マイヤーズ家への嫌がらせが始まる。モンゴメリーで「バス・ボイコット運動」が起こり、公民権運動が拡大していくのが1955年だが、サバービコンの倫理観はどう見てもそれ以前である。設定が1955年よりも前なのか、それとも、公民権運動など最初から気にも留めていない街なのか…。

 サバービコンの住人たちはどうして、黒人一家に不寛容であり続けるのだろう?サバービコンは決して安価な住宅街ではない。知識も教養も収入もあるはずの白人たちが、人種差別へ積極的に加担していく姿は怒りを通り越して哀れですらある。この描写を、「そういう時代だった」で片付けられるのかもしれない。しかし、彼らは恐怖していたはずだ。被差別者と同じ場所に住み、「成功者」であるはずだった自らの生活レベルが脅かされることに。

サバービコン 仮面を被った街
© 2017 SUBURBICON BLACK, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

白人たちがマイヤーズ家に行う嫌がらせはどんどんエスカレートしていく。それは、当時のアメリカで「繁栄から転落する」ことがいかに恐怖だったかを映し出す。いや、おそらく現代でもその恐怖は変わらないだろう。マイヤーズ家に隣接している家は、間に高い柵を設けた。だが、柵の目的は「黒人を見ないため」ではなく、「白人の醜さを見せたくないため」だったのだろう。そう、サバービコンではある白人家庭で、おぞましいトラブルが発生していたのである。

マット・デイモンとジュリアン・ムーアが体現する「凡庸さ」

マイヤーズ家の裏に住むロッジ家は、典型的なアメリカの白人中流層だ。家長のガードナー(マット・デイモン)はエリート会社員として一家を支え続けている。しかし、ある夜、強盗に押し入られ、クロロホルムの過剰摂取によって妻のローズ(ジュリアン・ムーア)が死んでしまった。そして、ローズの双子の姉妹、マーガレットが幼い息子、ニッキー(ノア・ジュープ)の世話をするため同居するようになる。しかし、ニッキーは父とマーガレットの行動が不審に思えて仕方ない。やがて、さらなる事件がロッジ家を襲う…。

瓜二つのローズとマーガレットは、映画『めまい』(1958)の引用だろう。『めまい』ではキム・ノヴァクが2役で「死者とそっくりな美女」を演じていた。ただし、『めまい』の引用は多くの映画作品が行っているので、とりたてて注目するものではない。単に、50年代的な記号の一部として流しておけばいいだろう。そのほか、後半の怒涛の展開については実際に見てもらいたいので、ここではマット・デイモンとジュリアン・ムーアというキャスティングの妙について述べていく。

サバービコン 仮面を被った街
© 2017 SUBURBICON BLACK, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

若手時代はイケメン役も数多くこなしていたデイモンだが、40歳前後から明らかに「平均的なアメリカ白人」の役柄が多くなりつつある。『ボーン』シリーズをはじめとして超大作への出演も続けてはいるが、『幸せへのキセキ』(2011)『プロミス・ランド』(2012)『ダウンサイズ』(2017)などで演じた「働く中年」の方に説得力が傾きつつあるのだ。近年のデイモンはイケメン路線を封印し、あえて「凡庸であること」に徹しようとしているのではないか。『サバービコン』撮影中も、脂肪をつける役作りに余念がなかったとのエピソードが、この予想を裏付ける。

ジュリアン・ムーアも圧倒的に「主婦」の役が回ってくる女優だ。同年代のデミ・ムーア、メグ・ライアンといったスターたちが、「大作の主演」以外の仕事をこなせずに出演本数を減らしていったことを考えると、「主婦女優」として開花したムーアの安定感はすさまじい。アカデミー賞を受賞した『アリスのままで』(2014)をはじめ、『キッズ・オールライト』(2010)『ラブ・アゲイン』(2012)などの良作でリアルに中年主婦役を演じている。そして、ムーアには50年代的なイメージもつきまとう。『エデンより彼方に』(2002)『めぐりあう時間たち』(2002)で演じたのは、50年代の良妻賢母的な価値観に苦しめられる女性役だった。『キングスマン:ゴールデン・サークル』(2018)の悪役はセルフパロディだといえるだろう。

『サバービコン』のアメリカはやがて60年代を迎える

つまり、『サバービコン』は、アメリカの観客が考える、もっとも「アメリカ白人っぽい俳優」が夫婦役を演じている作品なのである。しかも、デイモンにせよムーアにせよ、常に善良な白人のイメージを引き受けてきた俳優だ。だからこそ、『サバービコン』の人工的で記号的な「平和の街」に、2人はすんなりと当てはまる。そして、中流への幻想をいまだ捨てられない、白人観客の分身として機能するのだ。

1960年代に入ると公民権運動はさらに高まりを見せ、法改正を実現させていく。一方で、ケネディ大統領暗殺、ベトナム戦争突入などの大事件が起こり、若者たちはアメリカの欺瞞に気づいていく。それは、ガードナー・ロッジがボロボロになりながら守ろうとしたものであり、サバービコンの住民たちを暴力に駆り立てたものだ。21世紀に入っても、弱者を攻撃する社会構造はどの国でも根本的に変わってはいない。弱者を否定することが強者の条件にはなりえないにもかかわらず。

『サバービコン 仮面を被った街』公式サイト:http://suburbicon.jp/

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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