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【ネタバレ】『サスペリア』徹底解説 ─ オリジナル版からの変更点、エンディングの謎、ラストシーンの意味

サスペリア
©2018 AMAZON CONTENT SERVICES LLC All Rights Reserved

『君の名前で僕を呼んで』(2017)ルカ・グァダニーノ監督によるリメイク版『サスペリア』ほど、オリジナル版との強い緊張関係で結ばれた映画もそう多くはないだろう。ダリオ・アルジェント監督が1977年に製作した“聖典”の基本設定のみを残し、ストーリーは換骨奪胎して大幅に脚色。オリジナル版の色彩をも取り入れず、まったく新しい“ルカ・グァダニーノ版『サスペリア』”に仕上げてみせたのだ。

それでも本作は、あまりに膨大な情報と映像美、激しい破壊描写で観客を正面からねじ伏せにかかった。映画ファンを騒然とさせたリメイク版に対して、生みの親であるアルジェントは、奇しくも日本公開直前に「オリジナル版の精神に対する裏切りだ」とのコメントを発した。いわく「恐怖がない、音楽性がない。十分には満足しなかった」……。
しかしその一方で、リメイク版の脚本を執筆したデヴィッド・カイガニックは、自身がオリジナル版に不満を抱いていたことも明かしている「芸術作品としては大好きです。しかし物語はほとんど意味をなしていない」。グァダニーノ監督はオリジナル版を敬愛していることで知られるが、リメイク版『サスペリア』がオリジナル版とは一種対立した作品になることは自明だったのだろう。

では、脚本家のデヴィッドやグァダニーノ監督は、伝説のホラー映画をいかにして再創造したのか。オリジナル版からの変更点やエンディングにはいかなる意味が込められているのか。本人たちのインタビューから、新生『サスペリア』の核に迫ってみたい。

この記事には、『サスペリア』オリジナル版・リメイク版のネタバレが含まれています。

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1977年のドイツ、魔術と女性の関係

リメイク版『サスペリア』には、オリジナル版との共通点がいくつも存在する。バレエの名門校≒舞踊団という舞台設定、その頂上に座するエレナ・マルコス、『インフェルノ』(1980)『サスペリア・テルザ 最後の魔女』(2007)で掘り下げられる「三人の魔女」、そして主人公スージー・バニヨンをはじめとする登場人物たちだ(ただし人物の多くは名前のみの継承となっている)。

しかしそれでも本作が「オリジナル版と違う」という印象を与えるのは、オリジナル版に存在しない要素が多数用意されているためだ。特別に大きなポイントは、オリジナル版の公開年である1977年のベルリンを舞台と定め、当時実際に起きたドイツ赤軍によるハイジャック事件(「ドイツの秋」)を物語の背景に置いたところ。ホロコーストの爪痕が見え隠れすることや、スージーの生育環境にキリスト教メノナイト派という設定を取り入れたことも大きいだろう。

脚本を執筆したデヴィッドによれば、1977年のドイツ・ベルリンの社会情勢を取り入れることを提案したのは、意外にもグァダニーノ監督のほうだったという。

「ルカは1977年版に忠実なものを考えていると言っていました。それでも(監督が)当時のベルリンやドイツの情勢を物語に流れ込ませたんです。その話を聞いてすぐに、どうすれば作品が成立するかがわかりました。“ドイツの秋”や、当時のドイツの政治に照らすことで、魔女集会の権力闘争を描くことができると。密封されて熱にうかされたようなオリジナル版から、いきなり劇的に視野が広がったようでした。当時の政治を理解するという意味でも、さらにスケールの大きいものになりますから。」

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オリジナル版に不満を抱いていたというデヴィッドだが、それでもリメイク版の執筆は非常に不安だったそう。しかし、こうした背景設定が固まり始めてから「心配はなくなった」ということだ。その後、デヴィッドは魔術について研究を重ねていくうち、リメイク版の持つもうひとつのテーマに行き当たったことを明かしている。

「魔術や魔女の恐怖が、いかに女性の社会進出への恐怖につながっていたのかということをしっかりと研究しました。男女同権への動きは、オカルトの恐怖とあるところで交わるんです。これらのふたつは、歴史的にお互い関係しあっている。女性の社会進出に恐怖をおぼえた人たちが、そういった神話を作っていて、時にオカルトと関係しているんです。」

脚本の執筆にあたって、デヴィッドは「実在の魔術の研究には忠実でありながら、女性の社会進出についての物語を転覆、破壊しようとした」という。1977年のベルリンにいた魔女の集団はどのような見た目をしていたか、どのようにふるまっていたか、どんな儀式を行っていたのか……。舞踊団やその内実については、できるかぎり現実的なものとなるよう描写していったとのことだ。物語はその方向性を維持したまま、“魔女集会の権力闘争”そして“真の解放”へと向けて突き進んでいく。

結末の謎、スージー・バニヨンはいつから魔女だったのか

権力闘争を最後に制し、舞踊団に真の解放をもたらすのは、主人公スージー・バニヨンだ。しかしスージーをめぐる物語の結末こそ、本作のオリジナル版との最も大きな違いとなっている。オリジナル版のスージーは、連続する怪死事件の末、名門校の真実にたどり着く。そこで魔女ヘレナ・マルコスと対峙したスージーは、透明化するマルコスの首を一突きにしてその命を奪うのだ。マルコスの維持を第一としてきた学校は、その瞬間に文字通り崩れ始めることとなる。

しかしリメイク版『サスペリア』では、舞踊団がその維持に努め、本人も若い肉体を欲してやまなかったヘレナ・マルコスが、三人の魔女のひとり、“ため息の母”メーター・サスペリオルムではないことが明らかになる。サスペリオルムはもう一人の権力者マダム・ブランですらなく、“アメリカ娘”スージー・バニヨンに宿っていたのである。スージーは黒い悪魔のような怪物を呼び出し、マルコスやマルコス派の寮母たちを次々に殺害していく。そしてマルコスの“器”となるかもしれなかったサラやパトリシアには、そっと穏やかな死を与えるのだった。

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むろん、ここでひとつの疑問が生まれてくる。スージーはいつからサスペリオルムとなっていたのだろうか。舞踊団でマダム・ブランとの訓練を重ねる中で素質を身につけていったのか、それともスージーは元来そのような運命だったのか。

この問いに対して、スージー役のダコタ・ジョンソンとデヴィッドはともに明言を避けている。デヴィッドは、スージーが「自分が誰かはわかっている!(I know who I am!)」と叫んで目覚める場面はスージーの正体を示唆するものだと語ったが、それも“いつからそうだったのか”という謎の答えにはなっていない。ジョンソンは「解釈の余地を残しておきたいんです」と述べた。それでも二人の回答に共通するのは、“スージーはベルリンに引き寄せられていた”というものだ。

デヴィッドはスージーの物語について、その経過をこのように振り返る。

スージーがいつもベルリンに惹かれていたことにどこかで気づきますよね。彼女は常にマダム・ブランに向かって進んでいて、彼女自身、それがなぜかはわからない。[中略]やがて彼女は、マダム・ブランの見せる夢に勝ち始めていき、自分自身の図柄を夢に登場させてマダム・ブランを驚かせる。そして儀式の最中、マダム・ブランは“何かがおかしい、想像と違う、止めなければ”と言うでしょう。“この新たなものは何なのか、私たちには制御できない”と。」

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一方で女優のダコタは、あくまでスージーという人物の内面で起こったことにフォーカスを絞っている。

「スージーの進化は本当に内面的なもの。大切なのは、ベルリンやマダム・ブランに引き寄せられるのも非常に内面的だということですね。あらゆる可能性があるんです。彼女はメノナイト派の家庭で育っていて、メノナイト派はドイツが発祥です。しかし彼女は教会も、母親も父親も非難していて…基本的に自分の人生を受け入れていません。[中略]
彼女は磁石のようにダンスに引き寄せられ、ベルリンに行き、マダム・ブランと一緒にいることになる。間違った場所で生まれてきたようなもので、だから彼女は“ここは私の居場所じゃない”と思っていたんです。彼女が舞踊団で起きていることを理解したのは、とても、非常にささいな瞬間だったと思います。自分がなすべきことを彼女が理解した瞬間、それがいつだったのかは観客のみなさんに発見してほしいですね。」

ちなみにダコタは、スージーの生育環境が彼女の能力に影響を与えていた可能性も否定しなかった。「長いあいだ両親や宗教を信頼していなかったなら、完全に孤独な人間だと思っていたなら、すでにスージーは魔女になっていたでしょう」とも述べているのだ。

ホラー映画の女性像を更新する

オリジナル版『サスペリア』のスージーは迫り来る怪異に怯えながら真相にたどり着き、なんとかその元凶を撃退する。しかしリメイク版『サスペリア』のスージーは、ほとんど一切怯えず、怪異の存在に気付いているのか気付いていないのかすらわからないような態度で、しかし最後には恐怖の本丸を強靭な意思をもって突き崩してしまうのだ。

こうした変化は時代の要請でもあり、脚本家のデヴィッドが「女性の社会進出についての物語を転覆、破壊」することを企んだがゆえだろう。オリジナル版のスージーが、ホラー映画における“最後に生き残る少女”(Final Girlと呼ばれる)の従来型スタンダードだったとすれば、リメイク版のスージーはそこに真っ向から逆らっているのだ。そもそもスージーが舞踊団の裏側にはじめて接する場面から、彼女の様子は少々奇妙ですらある。

「刑事が裸にされて弄ばれる場面で、スージーの反応は“笑う”なんです。みなさんの予想とは違いましたよね。多くのホラー映画の場合、“最後に生き残る少女”は、ああいった場面を目撃すると逃げ出したくなる。でもスージーはそうではなくて、どんどん引きつけられていくんです。それがなぜかは彼女にはわかりませんが、恐ろしい出来事から逃げ出したいとは思わないんですよ。」

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物語の結末において、スージーは魔女そのものと同一化する。デヴィッドの言葉によれば、彼女はもはや“恐怖の源”ですらありうるのだ。

「冒頭に登場するメノナイト派のスージー・バニヨンは、映画の結末に出てくる人物とは明らかに違います。多くのホラー映画では、主人公は暴力や脅威を受ける対象になるものです。けれども僕たちはスージーに、特に映画の結末では恐怖の主体となってほしかった
ホラーというジャンルは、環境とのやり取りをするものです。だから“最後に生き残る少女”をうまく使えば、物として扱われたり、暴力にさらされたりしている女性の不安を描ける。この映画では若い女性が真のアイデンティティを発見し、自分の持っている力の源を知ることになります。その力は与えられたものではなく、彼女自身がその源なんです。」

ポストクレジットシーンの意味とは

そして物語は終わる。スージー・バニヨンはメーター・サスペリオルムとなって舞踊団に〈解放〉をもたらすのだ。エンドクレジットの終盤には、スージーが雪の降るベルリンの街にたたずんでいる短いショットが突如として挿入される。この場面をどのように解釈するかは――本編中のあらゆる場面やモチーフと同じく――観る者に委ねられている。

このシーンに関する言及はきわめて少ないが、米Inverseの取材に対して、グァダニーノ監督はこのように述べている。

「マダム・サスペリオルムは世界を見ている、未来を見ているんです。闇の中を歩き、カメラの向こう側を見ているんですよ。もしかすると、彼女は私たちを見ているのかもしれませんね。」

デヴィッドによると、このポストクレジットシーンは脚本に書かれていたものではなく、もともと本編のために撮影された映像が使用されているとのこと。グァダニーノ監督は、この映画で描かれたことの未来、さらなる物語がそこに秘められているのだという余地を残したいと考えてこのシーンを用意したのだそうだ。

なお本記事では、オリジナル版からの大きな変更点である、心理療法士ジョセフ・クレンペラー博士についてはあえて割愛している。クレンペラーと妻アンケをめぐる物語、およびマダム・ブラン役ティルダ・スウィントンの一人三役が意味するものは以下の解説記事をお読みいただければ幸いである

ティルダ・スウィントン、一人三役に隠された秘密

映画『サスペリア』は2019年1月25日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国の映画館で公開中

『サスペリア』公式サイト:https://gaga.ne.jp/suspiria/

Sources: IW(デヴィッド氏インタビュー), Collider(ダコタ・ジョンソン インタビュー), Inverse, The Film Stage, LA Times

Writer

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稲垣 貴俊Takatoshi Inagaki

「わかりやすいことはそのまま、わかりづらいことはほんの少しだけわかりやすく」を信条に、主に海外映画・ドラマについて執筆しています。THE RIVERほかウェブ媒体、劇場用プログラム、雑誌などに寄稿。国内の舞台にも携わっています。お問い合わせは inagaki@riverch.jp まで。

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