【レビュー】『最後のジェダイ』はいかにしてスター・ウォーズの伝説をリセットしたか ─ 「古いものは滅びるべき」

けじめをつけよう。スター・ウォーズはリセットされた。カイロ・レンの望み通り、過去は葬られ、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017)は新たなスター・ウォーズを立ち上げた。これぞ新世代のスター・ウォーズだ、と評価する声に納得することはできる。しかし、このスペース・オペラを心の支えとして生きてきた筆者は、『最後のジェダイ』二度目の鑑賞を終えて静かに確信したのだ。スター・ウォーズは死んだのだと。(以後ネタバレを含みます)
この記事には、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』のネタバレ内容が含まれています。

「これはお前の思っているようにはいかない」、「殺してでも過去を葬る」──『最後のジェダイ』は、スター・ウォーズの約束と作法をことごとく捨て去った。ひとつの時代が終演を迎えたのだと、この映画は何度もわかりやすく明示した。これまでのスター・ウォーズを象徴する様々な要素を、次々と(時に雑に)捨てていった。
投げ捨てられた伝説
ルーク・スカイウォーカーは、『フォースの覚醒』(2015)でついに受け取ったライトセイバーを投げ捨てた。かつてアナキン・スカイウォーカーが扱い、オビ=ワンが回収した後にルークの手に渡ったこのセイバーは、ベイダーとの戦いで右手ごと斬り落とされて行方不明になっていた。どういうわけか『フォースの覚醒』ではマズ・カナタが保管していたが、明らかに大切なアイテムとして登場させていた。あのライトセイバーを光らせるのは、長きに渡るファンたちの想いなのだ。
『最後のジェダイ』は、開始わずか数分で、ルーク・スカイウォーカー本人にその想いを葬らせたのである。その後すぐに明かされるように、ルークは疲弊し、心を閉ざしていた。しかし、ルークにライトセイバーを投げ捨てさせる必要性は本当にあったのだろうか。この類の描写は、パロディであるロボットチキンの仕事だったはずだ。拒絶することを示すなら、レイにそのまま返すとか、足元に落とすだけでも良かったはずである。捨てられたセイバーはその後偶然にも地上で見つかったが、あのまま海に落下して回収不可能になっていた可能性もある。上滑りのコメディセンスは幻滅を誘うのみだ。
「これはただの映画だ。観て、ただ楽しむものなんだ。夕日みたいなものさ。そこにどんな意味があるのかなんて心配しなくていい。”素晴らしい”って言うだけで充分なんだ」──創造主ジョージ・ルーカスによる、1981年のインタビューの言葉である(※)。『最後のジェダイ』のルーク・スカイウォーカーは、映画の過剰な神格化に疲れ切っていたかつてのジョージ・ルーカスそのものだった。ジェダイや自分に対する幻想を重荷に感じていたルークが「ジェダイは終りを迎えるべき」としたように、ルーカスフィルム/ディズニーは『最後のジェダイ』を以ってこれまでのスター・ウォーズを終わらせたのだ。
※「スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか」クリス・テイラー(著)、児島修(翻訳)、パブラボ、2015年
大いなる虚無の到来
これまでスター・ウォーズ・ファンは、新たなキャラクターたちの謎を過去のキャラクターたちに結びつけようとした。なぜか。そうあってくれた方が安らぐからである。スノークの正体が、レイやフィンの親が、過去に登場したキャラクターに深く関連するのではと考えることは、まるで心の中で子供部屋に戻り、あの頃のおもちゃ箱の中からフィギュアを取り出すかのような、ぬるく閉ざした感覚に浸ることができるからである。『最後のジェダイ』は、子供の顔のままおもちゃ箱を漁るような、過去に囚われたファンたちを断った。スノークは結局のところ何者かも明かされぬまま、尊厳も与えられずにみすぼらしく死んだ。レイの両親はジェダイでも、ましてや無原罪の御宿りでも何でもなく、名もなき者から生まれ、酒代のために売り捨てられたという設定が明かされた。
この設定は、スター・ウォーズ文化の屋台骨の一つとも言える「考察」の要素を完全に断ち切ることになった。冒頭のスカイウォーカー・ライトセイバーを投げ捨てる描写でさえ、「あのセイバーを巡ってどんな物語があったのか?」と思いを巡らせる気持ちをあざ笑い、「スノークの正体はこうじゃないか」「レイはこういう生まれなんじゃないか」と意見を交わし合う者たちに「これはただの映画だ」「そこにどんな意味があるのかなんて心配しなくていい」というルーカスの古い言葉を突きつけた。とはいえこれまでは、『フォースの覚醒』でさえ「余白」を残していた。スノークは実体を明かさないことで神秘性を煽り、レイのフラッシュバックは並々ならぬ運命を期待させた。結局のところ、過去7作が作り上げた偉大なる宝箱の中身は空っぽだったことを、『最後のジェダイ』は何食わぬ顔でで明かしたのである。