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映画館は「迫力があるから」行くべき場所なのか?─『2001年宇宙の旅』IMAX上映で考える劇場体験

『2001年宇宙の旅』公開50周年記念のIMAX上映でつくづく思わされたことは「映画は映画館で見るべき」というベタな感想だった。これほどの有名作品になれば、すでにソフトやテレビで鑑賞している人は多い。そして、鑑賞済みの作品のため、わざわざ劇場へと足を運びたくない心理も理解できる。しかし、1度見た作品であっても、思い入れがあるなら可能な限り映画館で見直してほしい。

『2001年宇宙の旅』が70ミリフィルムによって撮られた映画である以上、パソコンのモニターやテレビ画面では迫力がまったく伝わらないという理由はある。「迫力」は映画館の大きな魅力だ。ただ極論を書けば、『2001年宇宙の旅』ほどの出来映えでない映画でも、映画館のスクリーンで見るのがベストの形なのではないだろうか。この記事では、その理由を解説していく。

よくある「映画館の魅力」への違和感

まず、大前提として伝えておきたいのは、筆者は『2001年宇宙の旅』のような旧作を映画館で見ていない人たちを批判も否定もしていないという点だ。そもそも、今回のIMAX上映は、特定の地域に住んでいる人からすればいくら鑑賞したくても交通的に難しいケースがある。また、たまたまタイミングを逃したり、情報を聞き逃したり、忙しかったりして映画館体験ができなかった観客の傷口に塩も塗りたくない。これからの文章はあくまでも筆者の個人的見解であり、「反論する人間を認めない」と書きたいわけではないとご了承してもらいたい。

さて、筆者は一応「自宅鑑賞するよりもできるだけ映画館で作品を見たい」と思っている人間だ。時折試写会に招待されたり、サンプルDVDを送っていただいたりする仕事になってからも、心を打たれた作品は映画館で再び鑑賞する。そして、確実に「やはり映画館で見てよかった」と安心する。小さな画面と音量のせいで、作品の解釈を誤っていたケースも珍しくないからだ。筆者は「映画館絶対主義者」と呼んでいただいてかまわないと自覚している。

それでも、筆者は他の映画館絶対主義者が発しがちな意見に違和感を抱いていた。よくある「映画館で映画を見ると迫力が増す」「映画は映画館を想定して作られている」という意見が常に正しいと鵜呑みにできなかったのである。もちろん、一部の作品にこれらの意見はぴったりとあてはまりもする。『2001年宇宙の旅』などは好例だろう。

だが、パソコンやスマホで映画が見られるようになった時代で、「画面や音の迫力」を強みとして、映画館の魅力をアピールすることは正しいのだろうか。映画館で見たほうが迫力は増すなど、ほとんどの人間が知っている。そのうえで、「迫力よりも手軽さを優先する」視聴者が多くなっているのだ。

もっと書けば、映画館の中にもピンキリがある。家庭でも使える程度の小さなスクリーンで、ブルーレイやDVDを上映しているような劇場も日本にはある。筆者はスクリーンも音も大きいが、観客の吸っているタバコの煙で映像がかすんでいる劇場にもよく行った。映像のクオリティだけを重視するなら、正直、家でブルーレイを見ているほうがマシなレベルの映画館はある。すべての映画館が迫力をともなっているわけではない。

こうなってくると「映画は映画館での上映を想定している」という映画館絶対主義者の根拠も、なかなか怪しい。確かに、ほとんどの映画作品はそのつもりで制作されているだろう。しかし、作り手が望む環境で上映できているケースが世界中でどれだけあるのだろうか。どんなに劇場そのものの設備が優れていても、映画館にはトラブルがつきものだ。マナーの悪い観客や、劇場スタッフの態度なども映画の印象に影響を及ぼす。「家で鑑賞しているほうが好き」という意見が観客側から出てくる以上、筆者も含めた上映側の営業努力の至らなさも反省しなければいけない。

映画館でこそ作品は自分に「なじむ」

それらを踏まえて、なおも筆者は「映画は映画館で見るべき」と伝えたい。なぜなら、映画館で見ることでようやく、作品は自分に「なじむ」からだ。

『2001年宇宙の旅』のように、すでに評価が確立して、影響下にある作品が何本も登場した映画を、「単なる映画」として鑑賞することは難しい。どうしても「名作」「クラシック」「パイオニア」といった肩書きがつきまとう。試しに、『2001年宇宙の旅』について、近年書かれた映画評論なりガイドなりを読んでみるとわかりやすい。そこには、『2001年宇宙の旅』の「革新性」や「歴史的価値」についての文章があふれているだろう。

ただし、「『2001年宇宙の旅』は後世に影響を与えたからすごい映画だ」との理屈は成立しても、「だから面白い」かまではわからない。「面白い」「つまらない」「好き」「嫌い」を決めるのは観客自身だからだ。いうまでもなく、こうした主観的評価は、作品の歴史的価値と無関係である。それにもかかわらず、筆者のような人間は「歴史的価値」と「主観的評価」を混同してしまう。「『2001年宇宙の旅』はすごい映画なのだから批判はできない」と考えてしまうのだ。こうした発想は映画に限らず、本であろうが音楽であろうが美術品だろうが、後世を生きる者にまとわりつく性である。それに、何も作品の歴史的価値を念頭に置いて鑑賞するのが悪いことではない。

ただ、こうした見方「だけ」に偏ると、鑑賞体験から個人的な領域が失われていく。すでに確立されてしまった解釈とは別の思いが浮かんだとしても、無意識に否定して感想を軌道修正するようになりかねない。

誤解を招かないよう断っておけば、筆者は「知識などないほうが自由な発想で作品に触れられる」といった類の意見を受け入れがたい。むしろ、知識は鑑賞眼を養い、鑑賞体験をより豊潤な時間にするはずだ。しかし、こうした知識は自分で長い歳月をかけ、数多くの体験をともなうからこそ本人の血となり、骨となる。

ソフトや動画サイト、テレビ放映で作品を鑑賞しても、知識は手軽に得られる。むしろ、研究材料としてソフトや動画は映画館体験よりはるかに効率的である。そのかわり、ソフトや動画からは「歳月をかけて」という条件が抜け落ちていく。映画ファンの「歳月」とは、単なる鑑賞や情報収集に注いだ時間だけを指す言葉ではない。1本の映画を思い、偲び、待ち焦がれた時間も含むのだ。今回、『2001年宇宙の旅』との間で起こったような劇的な出会いがあって初めて、映画ファンの切ない歳月は報われるだろう。

映画館とはスターゲイトである

どんな映画でも、映画館で観るだけでドラマが生まれる。映画館に出かけ、帰ってくる手間を重ねることで、映画への思い入れは強まる。筆者にとっては出来の悪い映画ですら、映画館体験を経ると自分に「なじむ」。つまらない思いの強度は、ソフトの比にならない。つまらない映画について他人に語るとき、面白い映画について語るのと同じくらい饒舌になっている自分がいる。「つまらない」も立派な感想だからだ。一方、ソフトで出来の悪い映画を見ると、ただただ退屈するだけである。

自分は今回の『2001年宇宙の旅』IMAX上映のように、素晴らしい作品が何らかの節目で大々的にリバイバル上映される動きには大賛成だ。しかし、それをきっかけに「『2001年宇宙の旅』を映画館で見る意義」に限らず、もっと根源的な「映画館の魅力」にまで話が及んでほしいと願う。映画のスペックや功績を並べ立てれば、『2001年宇宙の旅』を見に多くの現代人が劇場へと足を運ぶかもしれない。それでも、映画館通いを習慣にはしないだろう。すべての観客が映画のスペックや功績に敏感ではないのだ。

また、『2001年宇宙の旅』のように、すでに数々の言論が飛び交っている映画に対し、21世紀を生きる我々は心情的にコネクトする方法をときに見失う。だからこそ、誰かが唱えた言説を自分のもののように信じ込みもする。再見の必要などないと勘違いしてしまうほどに。

映画館は「理想的な上映環境」だから優れているのではない。作品と鑑賞者の溝を埋め合わせるスターゲイトのような装置なのである。映画館で見ればどんな「歴史的傑作」も「自分の映画」に変わる。もっとも似ているのは音源に対するコンサートの役割だろう。だが、ビートルズやクイーンをオリジナル・メンバーでコンサート観賞できる可能性はゼロだ。映画館なら、どんなに古い映画でも「映画館で見ている」という一点において、あっという間に時代を飛び越える。

すでにソフトやテレビで鑑賞した映画でも、映画館で見てみることがよりおすすめだ。知っていたはずの物語が、まったく違う景色に見えてくるだろう。「映画の迫力」以上に、鑑賞者の作品への想いが大量に上乗せされるからだ。それを漢字一文字でなんと言い換えられるかなど、恥ずかしくて死んでも書きたくはないのだが。

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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