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トム・クルーズが誘う善悪なきアメリカン・ドリーム!『バリー・シール/アメリカをはめた男』で見せつける「主人公感」

バリー・シール
© Universal Pictures

「これからの5年間、アメリカ経済はどんどん悪くなっていくだろう」

1978年、当時の大統領、ジミー・カーターがスピーチをしている。彼の言葉を裏付けるかのように1979年にはオイルショックが到来し、アメリカを不況の波が襲った。カーターは穏健派の人格者だったが、経済政策でも外交でも消極的な手腕しか振るえず、2期目の政権を待たずして大統領の座を失う。そして1980年、ロナルド・レーガンが第40代アメリカ大統領に就く。ちなみに、その年はアメリカ史上最悪の殺人発生率を記録し“A Most Violent Year(もっとも凶悪な1年)”と呼ばれるようになる。

『バリー・シール/アメリカをはめた男』2017)の冒頭は、そんなニュースのコラージュから始まる。原題は“American Made”、つまり「アメリカ製」だ。アメリカがベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件という2つの恥辱にまみれた70年代の終わり、かつて「アメリカン・ドリーム」と呼ばれた希望は失墜したように見えた。しかし、本作の主人公、バリー・シールはただの旅客機パイロットから操縦の腕前だけでのしあがり、億万長者にまでなる。そう、アメリカは誰だって何にでもなれるはずの国だった。バリー・シールの魅力はまさに「アメリカ製」である。男のロマンが彼の人生にはつまっている。ただし、彼のアメリカン・ドリームは違法行為ばかりなのだが。

コスプレ劇で分かる80年代のアメリカ経済

1978年、航空会社勤務だったバリー(トム・クルーズ)はCIAにスカウトされて南米で諜報活動を始める。ゲリラたちの姿を上空から写真に収めるのが仕事内容だ。CIAからの依頼だとは伏せて転職を妻のルーシー(サラ・ライト)に相談するが、猛反対される。エリート街道を棒に振るのだから当然だ。だが、バリーはむしろ妻に怒られたからこそ躍起になったようにも見える。不況のアメリカでは、安定雇用こそが何よりの理想だった。これは現代日本とあまり変わらない。しかし、常識に縛りつければ縛りつけるほど男はじっとしていられない生き物だ。バリーは眠っている乗客を荒々しい運転で叩き起こすくらいしか楽しみのない仕事から、ゲリラたちの銃弾が襲ってくる毎日に文字通り「飛び立った」。

本作はバリーの冒険譚であると同時にトム・クルーズのコスチューム・プレイを楽しむ映画でもある。きりっとしたパイロットの制服に身を包んでいたバリーは、やがてラフなシャツ姿で南米の麻薬王たちとパーティー三昧を送る(バリーは副業で麻薬の運び屋を始めていた! 取引先にはあのパブロ・エスコバルも)。映画後半では高級ブランドに身を包み、ゴージャスな生活を謳歌する。かと思えば、汚い裏ビジネスがバレて福祉施設でみずぼらしい作業着をまとってボランティアを申し渡される。ルーシーもまた、セクシーな水着姿やドレスを着こなしながら、最後にはファーストフード店の制服を着て画面に現れる。優れた映画は登場人物の変化をしっかりと視覚化する。シール夫妻の栄光と失墜をファッション七変化として観客は見守ることになるだろう。

© Universal Pictures

悪事に手を染めても嫌いになれない主人公

シール夫妻の波乱万丈さこそが80年代以降の「アメリカ」である。レーガン大統領は長引く不況に終止符を打つべく、大胆な経済政策を施行した。減税や規制緩和によって経済を活発化させ、景気回復を目論んだのである。俗にいう「レーガノミクス」だ。レーガノミクスの成果については賛否があるが、以降のアメリカが自由競争社会をエスカレートさせるきっかけになったのは間違いない。自由競争社会では知恵と才能次第で誰もが大富豪になれる。たとえ、悪事の才能だったとしてもだ。

何の抵抗もなく南米の麻薬王と友情を結び、せっせとマネーロンダリングに精を出すバリーの倫理観を疑う観客もいるだろう。しかし、バリーはまぎれもない「アメリカ製」だという前提を忘れてはならない。バリーの追うアメリカン・ドリームは西部時代の開拓精神とはまったく別物だった。しかし、それでも「未知なる場所」で「スケールの大きいことをやり遂げる」バリーは、80年代版アメリカン・ドリームを体現している。行き当たりばったりで、簡単に仕事相手を裏切るバリーに呆れながらも観客は彼を嫌いになれないのは、そこにアメリカの可能性を見出すからだろう。サラリーマンからエスコバルと乾杯する日が来るなんて、普通では考えられるだろうか?

矛盾すらも背負って画面に映るトム・クルーズ

本作では『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014)以来のダグ・リーマン監督、トム・クルーズ主演のタッグが実現している。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は紛れもない傑作だが、その根拠を問われれば、素直にトム・クルーズの「主人公感」へと依存している点を挙げる。
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は異星人との攻防の中で、戦死するたびにある地点から戦闘をやり直す因果を背負った男の物語だった。日本の原作小説は二次元文化のメタ・フィクションとして描かれていたが、クルーズが主演になった瞬間からまったく別の文脈が生まれる。つまり、「死を許されない存在」としての「主人公感」が強調されるのだ。どうしてアクション映画で主人公は敵の銃弾に当たらず、仮に当たったとしても致命傷とはならず、「不可能な任務」をやり遂げてしまうのか。それには、「主人公だから」という理由しかあてはまらない。そして、ジョン・ウェインやヘンリー・フォンダが存命だった頃のハリウッドならともかく、現在の映画界で「プロット」の助けを借りずに映画内で「生かされる」存在はクルーズのみである。

本作はトム・クルーズの過去作を思わせる場面に満ちている。パイロット姿が『トップ・ガン』(1986)なのはもちろんだが、CIAとの絡みは『ミッション・インポッシブル』(1996)におけるスパイ活動を思わせる。車を前に妻と会話するシーンは『デイズ・オブ・サンダー』(1990)のようだ。ちなみに、サラ・ライトの容姿は元妻のニコール・キッドマンとよく似ている。

バリー・シール/アメリカをはめた男
© Universal Pictures

これらの類似シーンがリーマンの意図通りだったかはあまり問題ではないだろう。ここで言いたいのは、画面に映っているだけで主演作が連想され、しかもそれがアメリカ史と結びつくような存命の俳優はトム・クルーズしかいないということだ(クリント・イーストウッドが生きているという見方もできるが、彼は『グラン・トリノ』で俳優人生の集大成を見せてしまった)。バリー・シールが体現する、善から悪へと自由自在に行き来できる夢の国「アメリカ」は、何度も登場するフライトシーンによって表現されている。バリーはこれだけ悪行にまみれていたのに、少なくとも劇中では最後まで麻薬と浮気には手を出さなかった。矛盾にまみれた世界が見せる一時のロマンの甘さと苦さは、トム・クルーズという最後のスターを依り代として我々を誘う。

映画『バリー・シール/アメリカをはめた男』は2017年10月21日より全国の映画館にて公開中。

© Universal Pictures

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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