伝説のクソゲー『E.T.』はいかに生まれ、墓場に埋められ、そして発掘されたのか

スティーブン・スピルバーグ監督の代表作『E.T.』(1982)は、映画史に燦然と輝く傑作映画だ。少年と地球外生命体の心の交流を描いた同作が後世に与えた影響は計り知れない。思い出の作品として、今なおお気に入りに挙げるファンも多いことだろう。
しかし、そんな『E.T.』にも、数少ない「不名誉」がある。今なお「伝説のクソゲー」と称されるゲーム、アタリの『E.T. ジ・エクストラ・テレストリアル』である。
1980年代までに飛ぶ鳥を落とすゲームメーカーだった、アタリ(Atari)。1982年に発売されたアタリ2600用ソフト『E.T. ジ・エクストラ・テレストリアル』(以下『E.T.』)は、後に「アタリショック」と呼ばれる北米テレビゲーム市場崩壊の誘い水になったとされ、同社は倒産にまで追い込まれることになる。
一体、どんな経緯で開発されたのか。破滅の運命はいかにして出来上がったのか。
たった5週間?無茶すぎるスピード開発
このゲームのデザインと開発を手掛けたのは、映画『レイダース/失われたアーク』のテレビゲーム化や大ヒットゲーム「ヤーズリベンジ」などを手掛けた経験を持つハワード・スコット・ウォーショウ。これはスピルバーグからのご指名だったという。
最近になってNetflix「ハイスコア:ゲーム黄金時代」に出演したハワードが語ったところによれば、開発依頼の連絡を受けてから指定の納期まで、わずか5週間しかなかったという。当時、アタリでは1作の開発に6~8ヶ月を要したというから、いかに“無茶振り”だったかがわかる。
これは、その年のクリスマス商戦に無理やり間に合わせるためのスケジュールだったようだが、ハワードは「誰もそんな短期間でしたことがないし、誰もしようとも思わない。バカげたアイデアです」と振り返っている。ゲーム化のライセンス獲得交渉に時間がかかったため、そのしわ寄せが開発に来たのだ。
しかし、当時のハワードの答えは「絶対にできます」だった。自信満々でそう答えてしまったのが火曜日の夜で、そのまま「じゃあ木曜日の朝8時にサンノゼ空港のVIPターミナルへ来い」「それでスピルバーグのところへ行って、ゲームデザインのプレゼンをして来い」と命令されたという。つまりハワードには、36時間でゲームデザインを済ませなければならないという難題が押し付けられたのだ。
「スピルバーグは自分にとってアイドル」というハワードが緊張しながらプレゼンに挑むと、「彼は座ったまましばらく考えてから、“もう少しパックマンみたいにできない?”」と言ったという。ハワードは「最も革新的な映画監督の1人のくせに、他のゲームのパクリみたいなことを自分の素晴らしい映画でさせるのか?」……と言いたい気持ちをおさえ、「他のゲームの真似事のようなことをするのは、ある意味この映画に失礼です」と話した。とは言え、実際の本音は、「『パックマン』は5週間じゃ作れないぞ!」という事情によるものだったらしい。
それからハワードは、超短期間で『E.T.』を完成させるために“モーレツ”に働いた。「ハイスコア」で語られるところによると、四六時中コードのことを考えていたハワードは自宅に開発システムを移し、「どこにいても1分以内にキーボードにたどり着き、必要なコードを書くことができました」。
「人生で一番仕事をした5週間」をなんとか乗り切ったハワードの尽力の甲斐あって、『E.T.』は指定の納期までに開発を完了させた。スピルバーグの承認も無事に獲得し、400〜500万本製造されたこのゲームは、1982年の年末商戦最大の目玉として、全米の販売店に送り込まれた。サンタクロース姿のE.T.が、クリスマスプレゼントに贈られた本作をリビングでプレイするという胸躍るTVCMも製作された(映像はYouTubeにも残っている)。
しかし、ゲームの評価は散々だった。
アタリショック
ゲーム内容は、E.T.を操り、落とし穴の中にある部品3つを集めて通信機を完成させ、“ウチニデンワ”することが目的。いくら大ヒット映画のゲーム化とは言え、5週間の急ごしらえで製作されたためクオリティは低く、プレイヤーを満足させることは出来なかった。
当時のレビューを横断的に紹介したGame Historyでは、その当時の他のゲームと比較しても「グラフィックが雑」との批判が代表的だったと分析されている。また、ゲーム最大の欠陥として「落とし穴」が挙げられている。E.T.がやたら穴に落ちてしまう上、画面端に隠れて見えない落とし穴もあり、「非常にイライラする」。
結果として、『E.T.』は150万本売れた。全く売れなかった……、というわけではないのだ。事実、多くの名作タイトルを輩出したアタリ史上、第8位の記録である。
しかし、バカ売れを見込んで大量製造していたアタリは、売れ残った『E.T.』を数百万本単位で抱えることとなる。そればかりか、アタリと親会社ワーナーは、『E.T.』のライセンス料として当時としては超高額の2,000〜2,500万ドル、現在の価値にして5,300〜6,600万ドルを版権元のユニバーサル・ピクチャーズに支払っていたのである。日本円に直すと66〜70億円ほど。まごうことなき大赤字だったろう。
アタリは当時、『スペースインベーダー』といった大物タイトル移植版がヒットし、大ブームの中心にいた。同社はサードパーティによるソフト製作を認めていたが、これによってノウハウのない他業種のメーカーが続々と参入。粗悪タイトル、いわゆる「クソゲー」が横行することとなり、ユーザーの信頼はガタ落ち。1982〜1983年を境に、ゲームはパタリと売れなくなった。通称、“アタリショック”の到来である。『E.T.』大量の売れ残りと多額のライセンス料により大きな経済的ダメージを受けていたアタリは、この市場崩壊によってついに“ゲームオーバー”、1984年に分割、売却される。
「ビデオゲームの墓場」都市伝説は本当だった
『E.T.』大量の売れ残りはその後、廃棄処分として埋立地に埋葬されたという。残存する記録によると、量にしてセミトレーラトラック10〜20台分のアタリ製ゲーム本体、カートリッジやシステムがニューメキシコ州アラモゴードの地に埋められ、さらにコンクリートで覆われたとのこと。カートリッジのほとんどが『E.T.』であったとされる。
ニューメキシコのある地に、大量のクソゲーが埋められて眠っているらしい……。この出来事および埋立地は「ビデオゲームの墓場」と呼ばれ、いつしかその真偽さえ怪しい“都市伝説”として囁かれるようになっていた。
ところが2014年、これが事実であったことが発覚する。ゲーム『E.T.』を題材とするドキュメンタリー作品「Atari: Game Over」が製作されることとなり、この伝説を検証するために同地の発掘調査が行われたのである。その結果、『E.T.』を始めとするアタリ製ゲームが本当に発掘されたのだった。最も、都市伝説では数十万〜数百万のカートリッジが埋められたとされていたが、実際に発掘されたのは1,178本だった。

写真にあるクシャクシャにひしゃげた『E.T.』発掘パッケージは、当時の大きな期待に応えられず押し潰された様子を象徴するよう。なお、発掘された『E.T.』の一部は、ニューメキシコ州の博物館に展示のため贈与されたほか、eBayのオークションにも出品され、880本が累計107,000ドルで売れたという。
発売から実に30年あまり、大不評や埋葬の憂き目にあった『E.T.』にも、ようやく“オウチ”が見つかったわけだ。
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Source:DP Interviews,Video Game History Foundation,99% Invisible,CBC,Snopes,『ハイスコア: ゲーム黄金時代』第1話「ビデオゲーム革命」