Menu
(0)

Search

【考察】時代とともに変化する物語『美女と野獣』その足跡をたどる

『ラ・ラ・ランド』のさりげないミュージカルは新鮮で魅力的でしたし、お馴染みのポップスによる『SING/シング』もノリが良くて非常に楽しいものでしたが、実写版『美女と野獣』のような王道の力強い歌声の迫力もまた圧倒的で素晴らしいものでした。読者の皆様はもうご覧になられたでしょうか?

本作は、知的で進歩的な考えを持つ主人公のベルと主演エマ・ワトソンとのキャラクターが重なる部分も多いことでも話題を呼んでいますね。

実際にエマ・ワトソンはブラウン大学を卒業するほどの秀才。2014年にはUN Womenの親善大使に任命され、昨年2016年には国連総会で女性の権利についてのスピーチをしたことも記憶に新しいです。

さらに注目すべきは先日2017年5月7日、「2017 MTV Movie&TV Awards」にて彼女はベル役で最優秀俳優賞を受賞しました。①MTVの女優賞と男優賞の垣根が撤廃された今年  ②エマ・ワトソンが ③『美女と野獣』のベル役で、女優賞ではなく俳優賞を受賞したことは社会的にも非常に象徴的な出来事であると言えるのではないでしょうか。

2017年版の『美女と野獣』の内容、そしてその主演にエマ・ワトソンが起用されていることにフェミニズム的な背景を考えずにはいられませんが、ここでお伝えしたいのはこうした脚色は実はディズニーの手だけにより施されたものではないということです。フェミニズムに限らず、そしてディズニーに限らず「美女と野獣」は時代の変化に応じて様々な局面で様々な変化を経てきました。

今回は口頭伝承であった「美女と野獣」が小説や戯曲といった文字テクストとなり、さらに映画化された過程を辿っていきたいと思います。膨大な数があるためすべてを網羅することは残念ながら不可能ですが、代表的なものをいくつか順番に見ていきましょう。

18世紀までの「美女と野獣」

エマ・ワトソン主演、ビル・コンドン監督による2017年版が1991年のアニメーション版を元にしていることは周知の事実ですが、まずはそれ以前の系譜を確認してみましょう。

まず、所謂「昔話」のような形式としてイギリスからロシアまで、広い地域において様々なバリエーションで「美女と野獣」に似た異類結婚譚の口頭伝承が存在していました。花婿が動物であるパターンに限らず、女性側が異形となるパターンも少なくはなく、異形にも熊や犬・蛇や狼など様々なバリエーションがありました。

「美女と野獣」は1740年にヴィルヌーヴ夫人(注1)という人により初めて“文字で”著わされ恋愛物語になります。口頭伝承から文字による記録へと姿を変えるわけです。

そして1756年、ボーモン夫人(注2)という人がこのヴィルヌーヴ版を参考にして書いた『子どもの雑誌,あるいは分別ある家庭教師ともっとも優れた生徒たちとの会話』に収録されているもののうちの一つが「美女と野獣」の最もよく知られたバージョンとされています。そして、彼女のイギリス移住に伴ってこの「美女と野獣」はイギリスとアメリカの一部で出版され児童文学として広く認知されるようになりました。

ここで特筆すべきはいずれも女性作家――それもフランス革命以前の女性――による物語であるということです。

ボーヴォワールやマーガレット・ミードらが活躍するはるか以前に、さらにフランス革命期以降の女性解放思想が広まるよりも以前に「美女と野獣」は執筆されています。こうした時系列を確認する限り、ヴィルヌーヴ版、ボーモン版の「美女と野獣」はフェミニズムとは切り離された文脈上で、あるいは未成熟・発展途上のフェミニズムの文脈上でテキストが成立していると考えることが出来るのです。

[注1]ガブリエル・スザンヌ・バルボ・ド・ガロン・ド・ヴィルヌーヴ夫人
[注2]ル・プランス・ド・ボーモン夫人

いつの間にか省かれたもの

野獣のいる城からベルが父親の身を案じて一時的に村に帰省する、という箇所は今も変わらず残っているのですが、姉妹にそそのかされる、約束を忘れてしまう、などの理由でそのままベルが実家に留まってしまうというパターンが数多くのバリエーションで存在していました。現在の「ベル像」からは想像できないですね。ベルが戻ってこず悲しみに暮れる野獣はそのまま死に瀕してしまいます。ギリギリのところで改心したベルが城へ戻り、野獣が王子へ変身してハッピーエンドの幕を閉じるのですが、パターンによっては野獣がそのまま死んでしまう場合もあります。瀕死の野獣が王子に変身するところは現代のディズニー版にも残っていますが、このベルの不実は少なくともディズニー版の段階では完全に消えています。

いつのまにか省いたもの

同様に、民話から物語を作るにあたって、ヴィルヌーヴ夫人やボーモン夫人が省いているものもあります。「美女と野獣」が作られる際に必ず作者らの頭の片隅にちらついていたであろう物語としてローマ時代の作家アプレイウスによる「エロスとプシュケー」が挙げられるのですが、この「エロスとプシュケー」の最大のテーマはセックスです。

しかし、「美女と野獣」は儀式・手続き・合意としての婚姻には触れているものの性的な部分には一切言及していません。18世紀に書かれた二つの「美女と野獣」はいずれも性的な側面を避けて恋愛に重きを置いた優雅な物語に仕上がっています。無意識のうちに「女性らしさ」に囚われていたのかもしれません。

19世紀の美女と野獣

商品としての書籍が販売されることで、語り手と聞き手の関係が書き手と読み手という関係に変容し、「美女と野獣」は次第に広まっていきます。ことに子供向けの物語として浸透していきます。一部からは挿絵が添えられることで物語の本質を欠くのではないか、という批判もあったようですが、「吹き替えは駄目だ」とか「手書きじゃないと誠意は伝わらない」といった類のいつの時代でも聞かれるものだと筆者は考えます。

ボーモン夫人版のものを踏襲しながらも、シリアスなものからコミカルなものまで、文体・挿絵も様々でバリエーションに富んだ「美女と野獣」がこの時期に数々生まれ、ヨーロッパで広く親しまれるようになりました。また、様々なパターンがある中で政治を風刺した描写を含むものも現れるようになりました。

1946年 ジャン・コクトー版

フランスの芸術家ジャン・コクトーによる実写映画ではアヴナンという人物が現れるのですが、この男がガストンの原型といってもよいのかもしれません。アヴナンはベルに結婚を申し込み、野獣を殺そうとします。彼の存在が物語の緊迫感を高めます。このキャラ設定がディズニー版に大きく影響を与えているのではないかと考えられます。

しかし、アヴナンとガストンとの決定的な違いは「アヴナンの方がベルよりも進んだ考えを持っている」というところにあります。

家の手伝いをさせられているだけのベルに「そのような扱いを受けるべきではない」と求婚するのですが、ベルは「家事をしなくては」という理由でその申し出を断ります。自由意思により求婚に応じないのはディズニー版と同じですが、父親の下での家事を優先するというのはいささか旧来的な価値観ではないでしょうか。

コクトーは文化人でしたし、ココ・シャネルとも交流があった彼は多少なりとも女性の権利に関して進んだ考えを持っていたのかもしれません。とはいえ、この映画のテーマ自体は「外見より内面」という従来のものに沿っている印象があります。アヴァンギャルドな画面設計の美しい映画なのですが、現在ほとんどのひとが胸に抱く「美女と野獣」とは少し違った作品でした。

1991年版ディズニーアニメ

さらに女性に配慮したプロットに

1960年代後半よりアメリカでも女性の権利を訴える運動が活発になり、次第にディズニー映画は“古来的な価値観を固定化する”という批判を受けるようになります。それまでのディズニープリンセスの描かれ方を見て「女性はいつも受け身なのか」という批判を浴びせられていたわけです。

そうした状況の中、ディズニーは1991年のアニメーションの題材についにこの「美女と野獣」を選びました。

コクトー版は野獣の外見に拒否反応を示していたベルが改心する物語であるのに対し、ディズニーアニメ版は野獣がベルに対して心を開くという話になっておりベルの考え方は一貫してぶれることはありません(これは2017年実写版にも引き継がれていますね)。より力強い女性の姿が描かれています。

ガストンの登場

実写版ではルーク・エヴァンスが演じたヴィランのガストン。体育会系が苦手なはずの、日陰者で文化系の筆者でさえついうっかり惚れてしまうほどでしたが、そんな彼は1991年にようやく姿をあらわします。彼は独占欲が強く、女性の権利を軽んじ、暴力的なキャラクターとして描かれています。旧来的な男女観を持つヴィランを登用することでベルの聡明さ、典型的な「男性」の愚かさが際立ちます。ここまで振り切った悪役でありながら100%憎み切れないキャラを作り上げるあたりが流石ディズニーの手腕といったところでしょうか。

残念ながら結果としては「結婚だけが女性の幸せではない」という批判をディズニーは受けてしまったようですが、それでもかなりフェミニズム的には意義のある作品だったのではないでしょうか。数あるインタビューでエマ・ワトソンはこのディズニーアニメ版に強く影響を受けたと発言しています。実写版に主演するわけですから多少のリップサービスもあるかと思いますが、フェミニストとしても活動する彼女にとってアニメーション版『美女と野獣』はやはり特別な作品なのかもしれませんね。

おわりに

いかがだったでしょうか。膨大な時間の中で変化し続け、把握することも困難なほど莫大な数のバリエーションをもつ「美女と野獣」を相手にするにはどうやら時間がいくらあっても足りないようなのでここで一旦おしまいにしようと思います。1991年版アニメと2017年版実写映画を細かな(それもかなり細かな)比較考察をなさっている方も数多くいらっしゃるので、そういった視点で鑑賞するのも面白いかもしれません。残念ながら本記事ではエマ・ワトソン版の個人的な感想を書く余裕はなさそうですが、この文字数と熱量から筆者の想いを読み取っていただけたらと思います。

数世紀も生き永らえることができた盤石な物語と、ディズニーという偉大な制作スタジオがタッグを組んで生まれた『美女と野獣』。きっと何度見ても面白いでしょうし、これから何度リメイクされようともヒットし続けることでしょう。少なくとも筆者は次の世代の新しい『美女と野獣』が鑑賞できる日を待ち望んでおります。

<参考文献・参照資料>
「エマ・ワトソン、「女優」ではなく「俳優」として初の栄誉」http://ent.smt.docomo.ne.jp/article/337751
佐藤一男、栗原淑江(2014) 『女性たちのチャレンジ -過去・現在・未来-』 北樹出版
樋口淳、樋口仁枝 編訳(1989) 『フランス民話の世界』 白水社
ベッツィー・ハーン(1995)『美女と野獣 テクストとイメージの変遷』(田中京子 訳) 新曜社
W. R. S. Ralston, “Beauty and the Beast, ” The Nineteenth Century(December, 1878), p.1010

Writer

けわい

不器用なので若さが武器になりません。西宮市在住。