【考察】なぜ『デッドプール2』は愛されるのか? ─ 現代のアメリカが求める「オルタナティヴ・ヒーロー」の物語

映画におけるヒーローの条件とは何か?「正義の心」が正解に思えるが、実際には反社会的な行動を繰り返す悪漢にも惹かれる観客は多い。「腕力」?「ルックス」?答えは人それぞれではあるものの、「自己犠牲の精神」はかなりいい線をいっている答えのように思う。

注意

この記事には、『デッドプール2』のネタバレ内容が含まれています。

デッドプール2

©2018 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.

 

『デッドプール2』(2018)は我らが主人公、デッドプールがウルヴァリンについて語るシーンから始まる。大傑作『LOGAN/ローガン』(2017)で、これ以上ないほど気高い自己犠牲を貫いたウルヴァリンにデッドプールらしい皮肉を述べた後、彼は自爆する。マーティン・スコセッシ監督『カジノ』(1995)冒頭のパロディだ。

自己憐憫にあふれた『デッドプール2』の主人公

『デッドプール2』は主演のライアン・レイノルズ自らが脚本に参加したことで、前作以上にきわどいギャグが連発されるようになった。『グリーン・ランタン』(2011)を堂々とイジれるのも、レイノルズ本人がノリノリだからだ。そのほか、デッドプールの登場が賛否両論を呼んだ『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』(2009)についてのギャグもある。そして、たびたびデッドプールは観客の方を向き、「このひどい脚本は誰が書いたんだ?」とうそぶく。お分かりの通り、『デッドプール2』はメタフィクションの究極系ともいえる映画なのだ。

そう、本作におけるデッドプールはパロディと悪ふざけを続けながらも自己憐憫に溢れている。言うまでもなく、それは「自己犠牲の精神」とは対局をなす行動だ。自分を憐れみ続けている人間がどんなに破滅的な行動を取ったとしても、それは自殺願望の反映でしかない。誰かのために身を投げ出す「自己犠牲」とはいえないだろう。他のマーベル・ヒーローたちを見てみよう。超人的な能力はなくても、生身をさらしながら戦うホークアイ、国家の主として肉体と精神を極限まで鍛え上げたブラックパンサー、高潔さの塊であるキャプテン・アメリカについては言うまでもない。自己中心的で俗物だったトニー・スタークですら、ヒーロー・アイアンマンとして認められたのは『アベンジャーズ』(2012)で命をかけて地球を守ろうとしたからである。彼らは一瞬たりとも自分を憐れんだりしただろうか?

そして、彼らは自らを批評的に語ることもしない。それはあくまでも悪役のタスクである。『ダークナイト』(2008)にせよ、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』2018)にせよ、饒舌なのは決まって悪役だ。自分の内面を掘り下げてしまえば、ヒーローは必ず自己矛盾に苦しむこととなる。たとえば、『マン・オブ・スティール』(2013)のスーパーマンのように。ヒーローが正義を貫こうとすればするほど、それは誰かの正義と敵対する。そんな事実を抱えながら、ヒーローは迷いなく戦えるだろうか?だからこそ、彼らは己の正義を盲目的に信じて敵と対峙しなければならない。(ちなみに、その矛盾そのものを映画にしたのが『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016)だった。)

 

極悪非道の俺ちゃんをなぜ観客は愛するのか?

もちろん、本作のラストでデッドプールは己を省みて、自分以外のもののために戦う事実は記しておく。そして、映画に「怒りや憎しみにとらわれてはいけない。それよりも身近な人を大切にしよう」というメッセージがあることも分かっている。それでも、『デッドプール2』が特殊な映画なのは、観客の大半がデッドプールの成熟に感動するというよりも、本編の大半で彼が見せる「アンチ・ヒーロー」的な振る舞いにこそ共感を覚えているからではないだろうか。

『デッドプール』シリーズはマーベル作品ではあるものの、『アベンジャーズ』に代表されるマーベル・シネマティック・ユニバースからは分離された物語である。『X-MEN』シリーズとは接点を持っているが、結局、デッドプールはX-MENに加入しないままアウトローを貫く。いや、「アウトロー」と書けば聞こえはいいが、要するにデッドプールの行動は「私刑」である。デッドプールは施設で虐待を受けていた少年ミュータントに同情し、加害者側の職員を射殺する。だが、少年の憎悪は収まらずに、生き残った加害者に復讐しようとする。施設の罪もない少年少女もろとも。

デッドプールと少年の思考回路に大差はない。私刑を許してしまえば、この世から秩序は失われてしまう。それでも、デッドプールが観客から愛されるのは、彼の行動原理が、いかなる既存の倫理観にも属していないからだ。それは、既存の倫理観に観客が不信感を抱いている証でもある。

デッドプール2

© 2018 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.

既存の正義では救えない人々を引き受ける

確かにX-MENは正しい。自らが虐げられる側だった彼らは、だからこそ弱き者の気持ちが分かる。偏見や差別に抵抗しながら、それでも全人類の力になろうとするX-MENの姿はどこまでも尊い。しかし、ならばX-MEN以外の考えは悪なのだろうか?虐げられた側が「痛い」と感じ、加害者を憎むことは許されないのだろうか?ヒーローは弱き者の気持ちは理解できても、本人は弱き者ではない。彼らの正しい倫理では救えない人々も出てくる。(念のため、「だからX-MENはダメだ」と言っているのではない。)

そう、デッドプールはX-MENやアベンジャーズでは救えない人々の側に立ち続ける「オルタナティブ」としてのヒーローなのだ。そして、かつてのアメリカ映画には、法を逸脱することで誰かを救おうとする「アンチ・ヒーロー」がたくさんいた。ダーティー・ハリーは警察手帳と引き換えに、凶悪犯を射殺するだろう。シェーンは虐げられた開拓者たちを救うために再び殺戮の世界へと舞い戻るだろう。そして、彼らは悪者だけではなく、正義の側も観察している。正義が機能しなくなったとき、あるいは正義が腐敗してしまったとき、彼らは何度でも現れるのだ。

デッドプールが自らについて語るのは、彼が迷い続ける人間だからである。鉄の意志がないヒーローだからこそ、ひとつの正義に寄りかかることもない。そして、そんなデッドプールを愛し、必要としているのが現在のアメリカなのだ。どれほどまでのアメリカ国民が今、正義に踏みつけられ、「痛い」と声を挙げることすら許されずに生きているのだろう。『デッドプール2』のブラックユーモアの裏側には、マイノリティーたちの叫びと涙が隠されている。

『デッドプール2』公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/deadpool/

About the author

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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