【ガイド】ディランを「フォークの神様」とは呼ばせない!『ボブ・ディラン/我が道は変る ~1961-1965 フォークの時代~』7つの見所

ボブ・ディランといえば「フォークの神様」と呼ばれる存在である。
しかし、実際にボブ・ディランが自らをフォーク・ミュージックと定義し活動していた時代は、歌手を志してニューヨークにやって来た1961年から、ヒットを連発していた1965年までの間でしかない。1965年、フォーク界の寵児として評価セールスともに成功を収めていたディランは5thアルバム『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』にて大胆なモデルチェンジを果たす。エレクトリック・サウンドを主体に、ロックンロール路線へと舵を切ったディランは以後、フォーク・ミュージシャンという括りでは説明できないほどの豊かな音楽性を膨らませていく。
2017年6月3日より新宿バルト9他にて公開の映画『ボブ・ディラン/我が道は変る ~1961-1965 フォークの時代~』はディランの最初期の活動を解説するドキュメンタリーだ。ミネソタの朴訥とした青年がデビューを遂げ、4年足らずの間で音楽史に名を刻むまでのミュージシャンになる過程が関係者や研究家の証言によって明らかになっていく。おそらく、デビューしてからの4年でここまで急ピッチで成長し、名盤を量産したポッポミュージシャンは歴史的に見ても他にビートルズとデヴィッド・ボウイくらいのものだろう。ここでは映画から分かる初期ディランの魅力を、7つのキーワードにまとめてみた。映画の見所ガイドとしても活用していただきたい。?
ウディ・ガスリー
ディランが多大な影響を受けたフォーク・ミュージシャン。デビュー前からディランとは親交があり、病床にふけって第一線から退いていたガスリーの元に、ディランはお見舞いに通い詰めていたという。ガスリーもディランを後継者と認め、自分の人脈を積極的に紹介し続けた。ディランがデビュー直後に成功を収められたのも、ガスリーの後ろ盾があったからだろう。
ディラン以前のフォークソングについては『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』(’13)に詳しい。また、ガスリーの“Ship in the Sky”はミア・ハンセン・ラブ監督『未来よ こんにちは』(’16)でも印象的に使用されている。
グリニッチ・ヴィレッジ
マンハッタンの一角であり、1960年代はアーティストたちのたまり場だった。彼らの生き方はディランの思想に大きく影響している。本編中の証言によれば「ヴィレッジを批判する意見すらも受け入れられる自由な場所」だったとか。
当時のヴィレッジの映像は本編中でも流れ、最先端のファッションに身を包んだ若者たちが確認できる。
ディランの歌声
ディランのしゃがれ声は、数え切れないライブをこなすうちに定着していった癖なのだろうと思われる。また、音域が狭くなった70年代後半以降でも公の場で歌い続けているからこそ、しゃがれ声のインパクトが浸透しているのだろう。?
プロテスト・ソング
ディランといえばプロテスト・ソングである。社会に疑問を呼びかけ、人々の問題意識を煽るプロテスト・ソングはディランが発明したわけではなく、同世代以前のフォークにも存在していた。しかし、ディラン最初期のプロテスト・ソング“The Death of Emmet Till”などにはまだ天才の面影は薄い。人種差別で殺害された黒人の少年という実話をベースにした歌詞ながら、結論の陳腐さを本編では指摘されている。それは当時のフォークシーンに共通する欠点でもあった。
そんなディランがいかにして普遍的なメッセージを持つプロテスト・ソングを書くようになるのかは本編のお楽しみである。
ベトナム戦争
1960年代、ベトナム戦争に突入しアメリカでは政府への反感からカウンターカルチャーが巻き起こる。しかし、意外とフォーク界からリリースされた反戦歌には手ぬるいものが多かった。当時のジョンソン大統領は公民権運動で黒人運動家の活動を支持した人物であり、公民権運動を後押ししたフォークシンガーたちは強く批判しづらかったのである。
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