『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』は『ライ麦畑でつかまえて』の意志を継ぐ物語? ─ アメリカにおける現実と福祉の関係性

ただし、ボビーはうだつの上がらないようなタイプの大人ではない。ムーニーの悪戯でモーテルが停電した際、ボビーは宿泊客たちに急かされながらブレーカーを上げにいく。電源を復活させて帰ってきたボビーを宿泊客たちは拍手で出迎える。そう、ボビーは住人たちから特別慕われるわけではないが、邪険にされているわけでもない。「ほどよい距離」を保ちながら、彼らの生活を管理しているのである。
こうした映画の構造はどうしてなのだろう?ボビーが映画の狂言回し的なポジションだからか。しかし、本作は「ボビーの目に映るムーニーたち」よりも、「ムーニーの気持ち」の方にずっと焦点を絞っている。カメラの高さはほとんどのシーンでムーニーの目線に合わせられ、「6歳の少女の世界」を大切にしていく。中年男性のボビーは、映画の主観人物とは言えないだろう。
ボビーと『ライ麦畑でつかまえて』の類似点
ボビーの役割を挙げるとしたら、その存在自体に意味があるのではないか。劇中、ボビーが唯一、積極的にムーニーたちと関わるシーンがある。公園で遊ぶムーニーたちに、不審な男が近寄ってきたときだ。ボビーはムーニーたちが怯えないよう、穏やかに男を遠ざけたところで、怒鳴りつける。「二度とここには来るな」と。男の焦り具合から察するに、本当に良からぬ目的があったのかもしれない。
こうしたボビーの行動は、アメリカ文学の傑作『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデン少年が憧れた存在にそっくりだ。ホールデン少年は「ライ麦畑で遊ぶ子どもたちを崖から守る存在」になりたいと告白した。高校を退学になったホールデン少年が「ほんとうにやりたいもの」は「それしかない」のだった。1951年に発表された『ライ麦畑でつかまえて』は、その後、世紀をまたいでも青春小説の代表格として読み継がれている。ホールデン少年は大人への反抗と、純粋さの象徴となり、世界中で愛されるようになった。
実際に、社会で「子どもたちを崖から守る存在」として信じられている機関は「行政」や「福祉」だろう。しかし、『フロリダ・プロジェクト』を見れば、本来的に福祉のサポートを受けてしかるべき層が、極端に福祉の介入を恐れていることがわかる。低所得層のシングルマザーにとって、福祉が介入してくるという事態は、保護者不適格の烙印を押されることと同義だからだ。ある登場人物の女性は、自分の子どもにムーニーと遊ばないよう言いつけた。問題児と行動をともにしていて、福祉局に目をつけられたくないからである。
世界を変える力はなくても
保護プラグラムを掲げて否応なく家族に割って入る福祉局には「強制力」がある。それは、ボビーの「ほどよい距離感」と対照的なシステムだ。雇われ管理人に過ぎないボビーは、上司に対しても福祉に対しても、まったく抵抗する術を持たない。だからこそ、「見守ること」こそが自分にできる最上の策だとわかっている。ボビーが特定の宿泊客を贔屓してしまうと、「宿泊施設」のルールは崩れ去ってしまう。そして、弱い宿泊客ほど自活力を失い、ボビーに依存するようになるはずだ。