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『グリーンブック』否定論への疑問 ─ 「入り口」になる映画はいつの時代も必要だ

グリーンブック
© 2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. All Rights Reserved.

第91回アカデミー賞は、『グリーンブック』(2018)の作品賞受賞とともに幕を閉じた。しかし、その結果が波紋を呼んでいる。評論家筋から絶賛されていた『ROMA』(2018)や『ブラック・クランズマン』(2018)を押しのけての受賞だったからだ。もっとも、単に候補作のクオリティが拮抗していた、というだけなら賞レースではつきものの余波である。ただ、『グリーンブック』の作品賞獲得で問題になっているのは、より政治的な部分だといえるだろう。はっきりいって、アカデミー会員から人種差別的な価値観が払拭されていないとまで論ずるメディアもある。

筆者は『グリーンブック』という映画を愛する立場として、「同作が受賞に値しない」との論調を考えていきたい。


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解説:なぜ『グリーンブック』の作品賞受賞が批判されているのか

まず、『グリーンブック』否定派の意見を並べていこう。もっとも手厳しい論調を展開しているメディアのひとつがTHE ROOTである。同メディアは『グリーンブック』を「白人による白人のための人種的和解の幻想を描いた」映画だと酷評している。そして、主役の2人、黒人ピアニストのドン・シャーリーとイタリア系白人運転手のトニー・バレロンガが、史実では友人関係になかった点を強調した。

そのほか、否定派にもっとも多い意見が「『グリーンブック』が現代的な問題を描いていない」というものだ。言うまでもなく、2019年になっても根強い人種差別は残っている。白人と黒人が一緒に旅をしているうちに友情を結んだという美談がまかり通ってしまう状況は、人種問題に関心のある層には受け入れがたいほどの日和見主義に見えているのだ。

スパイク・リー監督によるアカデミー賞授賞式での振舞いも、否定派の怒りに油を注いだ。リーは『グリーンブック』が受賞した瞬間、会場を後にしようとして止められたという。リーは第62回アカデミー賞でも『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)での受賞が有力視されながら、蓋を開けてみれば作品賞の候補にすらならなかった過去を持つ。その年、作品賞を獲得したのは黒人の運転手とユダヤ系老婦人の交流を描いた『ドライビング Miss デイジー』(1989)だった。第91回の受賞結果と第62回を重ね合わせて評するメディアは少なくない。

ピーター・ファレリーはスパイク・リーより下なのか?

ただ、筆者はこう思う。どうしてリーの一挙一動は注目されているにもかかわらず、『グリーンブック』のピーター・ファレリー監督のコメントはあまり重要視されないのだろう?当サイトTHE RIVERを除けば、本当に数えるほどのメディアしかピーター・ファレリーの言葉に耳を傾けていないのが気になる。

その答えは簡単で、メディアや評論家がファレリーをリーの下に見ているからだ。かたや、インディペンデント映画界の生ける神話で、ハリウッドの人種差別と戦い続けている男、リー。かたや、弟のボビーとともにお下劣なコメディ映画を量産してきた男、ファレリー。もしもファレリーが社会派監督で、政治的な発言も積極的に行うようなタイプの人間だったら、ここまで作品賞受賞をバッシングされていなかったはずだ。

「白人であるピーター・ファレリーが黒人差別をテーマにしていることが偽善」という意見もある。しかし、ファレリー兄弟のフィルモグラフィーを振り返ると、彼らは彼らなりの方法論で差別と戦ってきた作家だとわかる。『愛しのローズマリー』(2001)や『ふたりにクギづけ』(2003)のように、ファレリー兄弟の映画では病気や障害を抱えた人間がたびたび重要な役割を果たしてきた。製作した『リンガー★替え玉選手権』(2005)も知的障害者と健常者の関係に切り込んだ作品である。

ファレリー兄弟は、マイノリティに属する人間がステレオタイプな価値観に押し込められてしまうことの危険性を常に発信してきた。『グリーンブック』のドン・シャーリーの造形にも、信念が受け継がれている。ドンは黒人であるにもかかわらず、彼らの音楽や食文化になじみがない。しかし、単に白人化した知識層の黒人というわけでもなく、複雑な生い立ちに苦悩している。ドンはこれまでのフィクションの類型に収まらないキャラクターであり、そのこと自体が映画のメッセージになっている。肌の色や人種で人間性は決めつけられないのだと。

『グリーンブック』ピーター・ファレリー監督

『グリーンブック』に辛辣な意見をぶつけるメディアの大半は、ピーター・ファレリー(とボビー・ファレリー)が映画で取り組んできたテーマ性をあっさりと無視している。本作は賞狙いでお手軽に作られたような類の映画ではない。ファレリーが長年訴えかけてきた主張の延長線上にある作品だ。それを偽善と称するなら、彼の映画すべてを見たうえで検証してほしい。こうした動きがないのは、メディアや評論家がファレリー兄弟のコメディを深く分析してこなかった怠慢を証明しているに過ぎない。

『グリーンブック』は自覚なき差別心についての映画

一方で、『グリーンブック』の差別描写が「手ぬるい」とする意見はまあ、一部同意する。ドンがバーで暴力を振るわれたり、全裸で拘留されたりするシーンは確かにショッキングだが、ほかの映画と比べて特に重々しいわけではない。作品賞ノミネートを外れた『ビール・ストリートの恋人たち』(2018)のほうが、黒人が抱く白人たちへの恐怖については真に迫っている。ただ、ここでも「重厚な映画はライトな映画よりも優れている」という、評論家たちによる偏見が感じとれる。

それに、過激な暴力が少ないだけで『グリーンブック』の差別描写はよくよく考えてみると恐ろしいものがたくさんあった。ドンはホワイトハウスにも招かれた一流音楽家だ。そんな彼も、南部ではホストの大富豪から室内トイレの使用を断られてしまう。理由は「決まりだから」。態度と裏腹の差別的行為は、「決まり」がどれだけ特定の人々を苦しめているのかを伝えている。そして、ドンの演奏を上流階級の添え物のように捉えている白人たちの傲慢さも。

グリーンブック
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トニーだってそうだ。彼は短気で粗野な男だが、陽気で気さくな人間でもある。トニーが黒人の使ったコップを捨てようとしたのは、「なんとなく嫌だ」以上の気持ちではなかっただろう。ドンに「俺はあんたより黒い。ストリートの人生を知っているからな」と言うときも、意識的に差別を行っているわけではない。それでも、差別問題の加害者とはそういうものなのだ。長い歴史を辿ってきた差別は、表面的にそれが撤廃された時代でも人々の深層意識に刷り込まれている。差別が政治的主張に裏打ちされていようと、「なんとなく」行われていようと、被害者の痛みは変わらない。誰にだって巣食う、自覚なき差別心。『グリーンブック』はトニーを通じて、観客の心まで見透かしてくる。

これらの作劇を踏まえると、『グリーンブック』で描かれているのは、「幻想世界のぬるい差別」とは呼べない。本作は、自分が善良だと信じている人々すら無意識のうちに加担している「潜在的な差別」を描いた映画なのである。『ブラック・クランズマン』や『ビール・ストリートの恋人たち』のような映画とは差別の深さが違うのではなく、問題の違う側面を提示しているだけだ。そして、あるテーマに対し、ひとつの作品で描き切れなかった側面を観客が知るには別の映画を見ればいい。『ビール・ストリートの恋人たち』も『グリーンブック』も『ブラック・クランズマン』も『ブラックパンサー』(2018)も、併せてみるから問題への理解は深まる。これらの作品群でどれがもっとも面白いかは、見る人の好みでしかない。

『ビール・ストリートの恋人たち』
『ビール・ストリートの恋人たち』より。(c)2018 ANNAPURNA PICTURES, LLC. All Rights Reserved.

「わかりやすさ」や「感動」は問題に無関心な層にも届く

筆者が『グリーンブック』批判でもっとも危険視しているのは、「わかりやすさ」や「感動」に対して攻撃が向けられていることだ。現実の差別問題を知る人からすれば『グリーンブック』のように、友情物語へと美しく転換されてしまうのは許せないのだろう。しかし、いかなる物事にも「入り口」は必要なはずだ。たとえば、『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)はコアなロックファン視点からは虚構だらけの歴史改変映画だが、その大仰なドラマ性がクイーンを知らない若年層の入り口として機能した。映画の果たした役割を考えると、その作劇を無条件であくどいと決めつけるのは難しい。

スパイク・リーやバリー・ジェンキンスの映画は、人種問題にある程度関心のある層を引きつけるだろう。一方で、問題に無関心な層や、まさに差別心を抱いて暮らしている層に彼らの映画は届きにくい。『グリーンブック』は、「加害者」側の人間(トニー)を憎めない主人公にして描くことで、幅広い観客が共感を覚え、自らの差別意識に気づくきっかけを与えている。

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筆者は『グリーンブック』を日本公開初日のシネコンで観ている。場内は終始笑いにあふれ、上映後にはあちこちで感想を述べ合う声が聞こえてきた。帰りのエレベーターが一緒になった老夫婦は「こんな地域があるんだね」と話していた。もしかしたら、あの老夫婦は『ブラック・クランズマン』を見に再び劇場を訪れるかもしれない。『グリーンブック』はわかりやすくて感動的な映画だからこそ、あらゆる人々が差別問題について考える入り口になりえた。それを「幻想」と切り捨てるのは、的外れだと思う。

アカデミー賞が政治的に偏向しているのも、その価値観がアップデートされていないのも事実だ。また、アカデミー賞が映画の純粋な芸術的側面を無視して、選択を誤ってきた歴史もある。しかし、受賞を逃した映画を肯定するために、『グリーンブック』を批判するという今回の反響には賛同しがたい。もっといえば、『グリーンブック』を批判することで、政治的正しさの側に立とうとしている人々の空気も感じてしまう。

繰り返すが、『グリーンブック』は意識的に差別問題と向き合っている人だけをターゲットにしている映画ではない。意識的な人もそうでない人もとりこめる間口の広さが本作の魅力だ。そして、社会を変えていくには、意識的な人以外にも問題を伝えていく必要がある。ときには、加害者とさえ対話しなくてはならない。

『グリーンブック』が幻想に見えるほどわかりやすいのは、差別問題に無関心な層さえも巻き込もうとする気概の表れなのだ。それすら読み取れないまま、「白人視点」「時代錯誤」といったテンプレートを用いて批判するのは、差別問題に向けられる新たな関心すらシャットアウトすることになりかねないだろう。

『グリーンブック』公式サイト:https://gaga.ne.jp/greenbook/

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Writer

石塚 就一
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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