『レディ・バード』に見るゼロ年代前半の青春像 ─ なぜ主人公はバンドマンに惹かれたのか

アメリカのポップカルチャーが、過去から断絶された日ははっきりと断言できる。2001年9月11日。ワールドトレードセンターにハイジャックされた2機の航空機が突っ込んだ瞬間だ。それからしばらく、アメリカのポップカルチャーは「喪失」を嘆き、「愛国心」を掲げるようになった。もちろん、それ自体は悪いことではない。社会的な大事件があったとき、作品に反映させるのはクリエイターの使命ではある。しかし、問題は「それ以外の表現」についての不寛容さが蔓延し、表現から多様性が失われてしまったことだ。
映画に限れば、今になってアメリカのゼロ年代の作品群を見返すと、70年代のように反体制的な映画も、80年代のようにテンションのタカが外れたようなテンションの映画も少数でびっくりさせられる。そのかわり、作風としては重々しいのに着地点は当たり障りのない物語が目立つ。ただただ国民の大多数を刺激ない作劇が求められるようになった結果、90年代のように作家性を尊重する流れが失われていったのがゼロ年代のアメリカ映画だったのだ。
だからこそ、近年になってゼロ年代には「インディペンデント」と一括りにされてきたアメリカの映画作家たちが日の目を見るようになってきたのは喜ばしい。ウェス・アンダーソン、ノア・バームバック、マイク・ミルズらはもともと安定して傑作を撮ってきたが、2010年代に入ってからは一般の観客からも好反応で迎え入れられるようになった。そして、彼らが共通のミューズとして起用してきた女優、グレタ・ガーウィグが晴れて監督デビューを飾った『レディ・バード』は、まさに「ゼロ年代」前半の空気を閉じ込めた傑作になっていた。
2002年のセンスからかけ離れたヒロイン・クリスティン
クリスティン(シアーシャ・ローナン)はカリフォルニア州サクラメントで暮らす17歳の少女だ。彼女は自ら「レディ・バード」と名乗り、気の強い母親・マリオン(ローリー・メトカーフ)に反抗し始める。クリスティンは田舎町から鳥のように羽ばたき、ニューヨークの大学に進学したいと考えていた。しかし、家計に余裕がないため、マリオンはクリスティンの考えに反対している。問題が山積みのまま、クリスティンの高校最後の1年間が幕を開けた。
本作の時代設定は2002年から2003年にかけてだが、面白いのはクリスティンのセンスである。おそらくは髪を赤く染めている彼女は、『赤毛のアン』や『にんじん』といった、名作児童文学の主人公を連想させる。つまり、2002年の時点でクリスティンはすでに「流行に敏感」とはいえない存在だ。事実、クリスティンが愛聴している音楽はアラニス・モリセットを除けば懐メロばかり。いや、アラニスにせよ、クリスティンが好んで聴いているのは95年のシングル「Hand in My Pocket」である。当時のアメリカで流行していたのはダンサブルなラップ音楽と商業的なギター・ロック。つまり、クリスティンの生活からは驚くほど「2002年のセンス」が感じとれない。
ガレージ・ロックがクールだった時代
さて、ここで個人的な話をすると、2002年時点で18歳の学生だった筆者は、当時のアメリカのメインストリームの音楽にほとんど興味を持てなかった。典型的な斜に構えた文化系のクソガキだった筆者が、唯一傾倒していたリアルタイムのアメリカ音楽は「ガレージ・ロック」だ。2000年あたりからザ・ストロークス、ホワイト・ストライプス、ヤー・ヤー・ヤーズといった優れた若手ガレージ・ロックバンドが次々に登場し、すっかりスタジアム化していたメインストリームのロックバンドへのアンチテーゼとなっていったのだ。今では信じられないことだが、当時のガレージ・ロックバンドは無条件で新しく、クールな存在だった。