『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』は「苦悩するヒーロー」の映画か? 流行を振り切った疾走感の理由とは

派手なアクションやCGが見せ場として用意されたシリーズ映画で、「苦悩する主人公」が頻繁に登場するようになって久しい。こうした作劇の原点はクリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』(2008)だと断定されがちだ。事実、ノーランがプロデューサーとして関わった『マン・オブ・スティール』(2013)や『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)といったアメコミ映画の主人公たちは終始、苦悩し続ける。己の存在に。正義と悪の定義に。愛する人を失う恐怖に。
だが、『ダークナイト』以前、『007 カジノ・ロワイヤル』(2006)から始まる、ダニエル・クレイグ主演の『007』シリーズにも「苦悩する主人公像」は採用されていた。こうしたキャラクター造形には何らかのキラー・コンテンツというより、時代の流れが反映されているのだろう。
『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』(2018)もまた、シリーズ6作目にして、もっとも主人公イーサン・ハント(トム・クルーズ)の苦悩にフォーカスした1本だといえる。ただし、それだけでは本作の魅力を解き明かしたことにはならない。この記事では、「苦悩する主人公」というトレンドを『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』がいかに“跳躍”していったのかを解説したい。

なぜヒーローたちは苦悩するようになったのか
そもそも、どうして「苦悩する主人公」がこんなにも大作映画を席巻するようになったのだろう。ひとつには、「主人公像のリセット」という目的がある。クレイグ版『007』にせよ、ノーラン版『バットマン』にせよ、最初は有名ヒーローたちの前日譚が描かれる。つまり、それまでの過去シリーズを一旦白紙に戻し、まったく新しい主人公像を確立させようという試みだ。
当然、主人公は身も心もヒーロー(あるいは完璧なプロフェッショナル)になる前なので、欠点や弱さも観客にさらけだす。無敵であるがゆえに近寄り難かったヒーローたちは、ここで初めて共感可能な「人間」として観客に受け入れられるだろう。
またゼロ年代以降、イラク戦争やブッシュ政権の不人気、リーマン・ショックといったアメリカの根幹を揺るがす事件が次々に起こったことで、観客がフィクションにおける「絶対的な正義」を信用できなくなった背景も関係している。その結果、神のメタファーであったスーパーマンですら、映画の中では人間並みの凡庸な苦悩を与えられてしまう。言葉遊びではあるが、「キャラクターに矛盾があってようやく、観客は映画に矛盾を感じなくなった」のである。
『フォールアウト』冒頭で、ハントは悪夢を見る。宿敵、ソロモン・レーン(ショーン・ハリス)の陰謀によって愛する女性の命が奪われてしまうのだ。IMF(不可能作戦部隊)のエージェントであるハントといる限り、恋人もまた危険を避けられない。それゆえにハントは、大切な人ほど自分から遠ざけるしかない。
こうしたハントの苦悩は『M:i:III』(2006)あたりから目立ってきたが、本作ではついに作劇の中心となる。ハントが夢に見たように、レーンは悪者たち(バカみたいな響きで申し訳ないが、「悪者」としかいいようがないのだ)と共謀し、ハントと世界を絶望に突き落とそうとする。ハントのせいで、世界は危機にさらされる。これまで正義のために行ってきた任務が、裏目に出てしまった形だ。

苦悩するヒーロー映画のデメリットとは
主人公が大きな苦悩を抱えた映画はそれなりにシリアスで、思索的なムードを観客に提供してくれる。しかし、すべての「苦悩映画」が『ダークナイト』のように成功しているわけではない。なぜなら、主人公がただただ苦悩しているだけの作劇にはデメリットもともなうからである。