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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』徹底予習 ─ シャロン・テート殺人事件とチャールズ・マンソンとは

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
Margot Robbie stars in ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD.

1969年8月9日に起きたシャロン・テート殺人事件から、50年を迎えた。なぜ、若き美人女優シャロン・テートは、無残にも殺害されたのか。1943年生まれ、生きていれば今年(2019)で76歳、ハリウッドを代表する大女優になっていたことだろう。同い年の著名人に、ロバート・デ・ニーロやキース・リチャード(ローリング・ストーンズ)がいる。日本人では、田村正和やアントニオ猪木、樹木希林と同齢と言えば、もっと親近感が湧くだろうか。

クエンティン・タランティーノ監督の最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年8月30日公開)は、ハリウッド史上最悪の「闇」と呼ばれるシャロン・テート殺人事件が深く関係する作品だ。事件の概要と、その主導者チャールズ・マンソンの恐ろしさを知っていると知らないでは、タランティーノがこの映画に込めたかったであろう意義がまるで違ってくる。そこで、60年代末のハリウッドを描く『ワンハリ』の文化的な予習として活用いただくべく、この記事を贈ろう。映画を観る前に是非読んでおいて欲しい。

1969年8月9日、事件は起こった

その日の午後、新進気鋭の女優シャロン・テート邸の育児室は、月末にも産まれてくる赤ちゃんのためにペンキの下塗りを終えたところだった。26歳。『吸血鬼』(1967)や『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)で知られる映画監督ロマン・ポランスキー(2002年の『戦場のピアニスト』でアカデミー3部門受賞)の妻だった。ポランスキーの『吸血鬼』や『サイレンサー第4弾/破壊部隊 』(1968)に出演し、若くして未来を約束された彼女は、ハリウッド・ドリームの体現者になるはずだった。その数時間後、彼女は無残に殺害されることとなる。シャロンは妊娠8ヶ月の身体を悪魔にめった刺しにされながら、「お母さん……お母さん……」と泣いたという。

1969年8月9日深夜、シャロン・テートは、邸宅に招いていた3人の友人と、たまたま訪れていた1人と共に惨殺された。この事件はヒッピー文化の中で夢を見ていたハリウッドに、永遠に残る暗い影を落とした。全ては、チャールズ・マンソンという破滅的なカルト指導者の企んだことだった。一体あの時、ハリウッドで何が起こっていたのか──。

実際のシャロン・テート。

カルトの支配者 チャールズ・マンソン

1960年代後半のロサンゼルスは、ヒッピー文化に浮かれていた。ベトナム戦争真っ只中だった当時、徴兵制下にあったアメリカの若者たちは軍事覇権主義に対しては「ラブ&ピース」で、キリスト教的な西洋思想に対してはヨガやインド哲学、禅や仏教などの東洋思想をもって対抗(カウンター)に挑んだのだ。彼らは自然の中での共同体生活(コミューン)に回帰し、人間や自然と触れ合う開放的な生活を志した。自由な愛を重んじる彼らはフリー・セックスを楽しみ、精神世界での自己探求の旅に飛び込むためにドラッグや大麻を多用した。

チャールズ・マンソンが世俗に放たれたのはこの頃だった。6年9ヶ月の刑期を終えたマンソンが出獄してきたのは、1967年3月21日だった。

チャールズ・マンソンの誕生

マンソンは、16歳の売春婦によって1934年に愛なく産み落とされた。産まれてからしばらく、名前すら与えられなかった。父親が誰かはよく分かっていない。「マンソン」とは、ある時母親が気まぐれで一時的に結婚していた男の名だった。

マンソンが5歳のとき、母は強盗に失敗して逮捕され、懲役5年の刑を喰らった。それからマンソンは親類や孤児院を転々とする。1942年に母が仮釈放されたあと、彼女が帰ってきた最初の1週間は「人生で一番幸せな時だった」、と後にマンソンは言い残している。母はその後も重窃盗で逮捕されるなどの犯罪を繰り返し、1947年には我が子を孤児院に送った。マンソンは脱走して母の元に戻るが、そこで「出ていけ」と院に戻される。これが引き金となったように、その後再び脱走して街で窃盗に手を染めるようになった。そこからマンソンは様々な犯罪を繰り返し、何度も逮捕される。1960年代の大半は牢屋の中で過ごした。

22歳のチャールズ・マンソン。

獄中にいる頃から、マンソンは狂信のカリスマだった。魔術や催眠術、フリーメイソン、サイエントロジー、潜在誘因といったカルトめいた要素に関心を寄せ、中でも催眠術と潜在誘因にはとりわけ興味を持った。獄中の若きマンソンが残した有名な逸話に、「チャーリー・マンソン・イヤホン作戦」というものがある。監房内の寝棚にかかっているイヤホンを通じて、囚人が深夜眠っている間に秘密の命令を彼らの潜在意識に植え付けたというのだ。たとえば、刑務所内のコンテストで自分が歌う時は全員拍手をし続けろという暗示をかけた。これは実際に作用し、マンソンはコンテストで優勝を果たしたという。この頃よりマンソンは、科学的あるいは魔術的な方法を問わず、他人を思い通りにコントロールする術を身に着け始めていた。

マンソン・ファミリー

間もなくカルト教のリーダーとなるマンソンが危険な能力を身につけて釈放された頃、世の中は前述したヒッピー文化の最中にあった。『現代殺人百科』の著者コリン・ウィルソンは、この時代の空気とマンソンがいかに危険な組み合わせであったかを、次のように説明している。

町には長髪の若い男と若い女があふれていた。若者たちはベトナム徴兵を忌避することに熱をあげていた。仕事はサボることになっていた。ハイト・アシュベリー地区では、LSDとコカインで「ラリって」乱交し、社会的常識をせせら笑うのがはやっていた。マンソンにとってそれは、反道徳的な門をやすやすとくぐり抜けるようなものだった。

マンソンは次第に、若い女を集めて共同体生活をおくるようになった。髪と髭を伸ばしていたのは、キリスト的な神秘性を纏うためだ。ギターで歌いながら、言葉巧みに若い女たちに同情して、ドラッグも与えて心を掴んだ。言いなりになった女たちの性を、今度は男にも提供して、男女共に信者を獲得していくと、ドラッグとセックスを蔓延させ、絶対的な支配を得るようになった。

はじめのうちは、マリファナやLSDなどのドラッグをキメて集団セックスに興じるヒッピー集団だったが、ファミリー内のマンソン崇拝は次第にエスカレートしていく。末期になると、キリストに見立てたマンソンを磔にした前で、みなで犬の血を体中に塗りたくって乱交に興じるような集団と化していき、ついにはマンソンが殺せと言えば人殺しも辞さない殺人集団へと変貌していくことになる。

ハリウッドの勝ち組への恨み

マンソンには音楽の情熱があった。ビートルズよりも偉大なミュージシャンになることが、彼が抱いていた野望だった。レコードを通じて、世界中に彼のメッセージを届けるためだ。支配下のメンバーを黒塗りのバンに乗せて放浪の旅に出ていたマンソンは、1967年に発表されたビートルズのアルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」に触発され、この生活そのものを「マジカル・ミステリー・ツアー」と呼び、神秘的なものであると見なした。この頃よりマンソンは、ビートルズに異様な執念を抱いている。

当時一斉を風靡していたロック・バンド「ザ・ビーチ・ボーイズ」のメンバー、デニス・ウィルソンや、ミュージシャンでプロデューサーのテリー・メルチャーとも親しくなっていた。マンソンはテリーのプロデュースでシンガー・ソングライターとしてデビューする話になっていて、実際にレコーディングまで行っていたが、結局テリーが約束を守らずにマンソンのデビューの夢は流れた。もっとも、テリーはチャーリーと約束ごとなどしていないと述べている。マンソン公判の主任検察官ヴィンセント・ ビューグリオシーが事件をまとめた著書『Helter Skelter(原題)』には、テリーは一度ファミリーの元を訪れて、哀れに思って小遣いを恵んだことはあったものの、それは所謂契約金ではなかったことや、マンソンの音楽の才能を”そんなに大したものじゃない”と評していたことが書かれている。ともかく、テリーとの熱意のすれ違いが、もともと世に見放された出自の持ち主であるマンソンに、ハリウッドの「勝ち組」たちに対する激しい憎悪を掻き立てる一因となった。

シャロン・テート殺人事件前年のチャールズ・マンソン。

ちなみに、1969年3月24日には、マンソンはテリー・メルチャーの邸宅を突然訪問している。しかしテリーは4ヶ月も前に引っ越ししていて、この時はシャロン・テートとロマン・ポランスキー夫妻のものになっていたのだが、マンソンはそれを知らなかった。この日ポランスキーはヨーロッパ出張のため留守にしていて、シャロンも翌日ローマに飛ぶための荷造りの最中だった。彼女の専属カメラマンがその様子を撮影していて、そこにマンソンが尋ねてきた。マンソンは、テリー・メルチャーを探していると伝えた。シャロンも戸口に出てきて、そこにいるのは誰かと尋ねた。後に、この男の手下に惨殺されるとは知る由もない。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でデイモン・ヘリマンが演じるチャールズ・マンソン。

スパーン映画牧場とヘルター・スケルター

1968年5月、旅を続けていたマンソン一行はカリフォルニア州チャッツワースにあるスパーン映画牧場という西部劇用の大きなセットに辿り着いた。マンソンはここをファミリーの住処にするため、この地のオーナーである盲目の老人、ジョージ・スパーンの世話をしてやった。マンソンの言う事なら何でも聞く少女たちを使って、ジョージの生活とセックスの面倒を見させたのだ。それから、牧場で飼育されていた60頭前後の馬たちの世話もした。週末になると、観光客相手に乗馬体験を提供して金を稼いだ。ファミリーは、街のゴミ箱を漁って食料を調達し、たいていの時間はドラッグで陶酔するかセックスをして過ごしていた。ファミリーには奇妙な規律がいくつかあり、例えば女たちは犬より先に食事をしてはいけない、などがあった。

マンソンは、カリフォルニア州中部のデスヴァレーに、巨大な地下世界につながる穴があり、そこではチョコレートの泉や食べ物がなる木々が生い茂っているとか、この穴の中で、ファミリーたちは世俗を捨てて暮らすのだという幻想に取り憑かれていた。彼の終末論をより一層破滅的なものにしたのが、1968年末に発売された、「ホワイト・アルバム」と呼ばれるビートルズの真っ白なアルバムだった。人間を豚に見立てて人間社会を皮肉る「ピッギーズ」や、セックスやドラッグの隠喩と解釈される「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」、黒人女性を鳥になぞらえた「ブラックバード」などが収録されたこのアルバムを、マンソンはビートルズから発せられた教示だと解釈した。雑音や効果音、テープを逆再生させた音や笑い声、喋り声を切り貼りした前衛的な一曲「レボリューション9」から、マンソンは「チャーリー、チャーリー、電報をくれないか?」という隠れたメッセージを聞き取った。

彼は、ヨハネの黙示録をかじって、ビートルズの4人は人類の3分の1に死をもって報いる4人の使徒であり、自分こそが5人目の使徒であると信じていた。マンソンは、間もなく黒人たちが蜂起して白人に戦争を仕掛け、白人を全滅させて世界を支配するという荒唐無稽な終末戦争論に取り憑かれていた。その間マンソンのファミリーは、穴で暮らして破滅を免れるのだ。マンソンの予言によれば、黒人による世界統治がしばらく続いた後、自分たちに世界を治める能力がないと認めた黒人がマンソンに王座を譲り渡すのだという。この黒人対白人戦争が勃発するその日のことを、マンソンは“ヘルター・スケルター”と呼んだ。ビートルズのホワイト・アルバムに収録された、彼らの楽曲の中で最も衝動的で激しい一曲の名から取ったものだ。哀れなマンソンは、この”ヘルター・スケルター”がイギリスの遊園地にある滑り台を指していることを知らなかった。

ともかくマンソンは、ファミリーに”ヘルター・スケルター”への備えを呼びかけた。戦争があると思うと、ファミリーたちは興奮して、武器や車両を蓄えて、射撃訓練にも励んだ。そして1969年の夏、ある事件が彼らの暴力的な運命を決定づける。

そして、1969年夏

きっかけは、マンソンの右腕であるテックス・ワトソンと金銭トラブルを起こした黒人の麻薬密売人の元に話をつけにいったことだった。黒人嫌いのマンソンはこの男の腹部を銃で撃った。この一撃こそが、1969年の夏にハリウッドを襲った凄惨な一連の事件の、文字通りの引き金となった。支配下でのマンソンへの畏怖と崇拝は、この殺人の事実によって格段に高まったのだ。(ちなみに、マンソンは殺したと思い込んだが、男は後に回復する。)

続いて7月、マンソン・ファミリーのメンバーであるボビー・ボーソレイユ、サディ(スーザン・アトキンズ)、メアリー・ブランナーの3人が、ゲイリー・ヒンマンという音楽教師の元を訪れた。ヒンマンには、自宅に2万ドルの遺産を隠しているという噂があり、マンソンはこれを奪うためにメンバーを仕向けたのだ。ボーソレイユは銃を携行していた。金はないと主張するヒンマンの家の中をひっくり返して探しても、本当に金は見つからなかった。やがてヒンマンとサディが乱闘になると、ボーソレイユは銃の柄でヒンマンを数回殴りつけた。

金はないし、ヒンマンも協力しない── ボーソレイユから電話報告を受けたマンソンも、刃渡り約60センチの「魔法の剣」を持って現場に向かった。マンソンはこの剣を一振り、ヒンマンの耳を千切れかけさせると、その場を去った。ボーソレイユらはヒンマンが逃げ出さないように一晩中見張っていたが、その夜マンソンは電話で「殺せ」と命じたという。なのでボーソレイユは、ヒンマンをナイフで刺した。日蓮正宗の教徒だったヒンマンは、死の苦しみに悶ながら「南妙法蓮華経」を唱え続けて果てた。彼らはヒンマンの血で、壁に「政治豚(Political Pig)」と書きなぐり、その横にヒョウのような猫の足も描いた。黒人解放組織ブラックパンサー党の仕業に仕立て上げるためだ。ヘルター・スケルターが近づいている!

ヒンマンの死体が発見されて一週間後、実行犯のボーソレイユが車両窃盗の疑いをきっかけに逮捕された。ファミリーの娘たちはボーソレイユを救うため、ヒンマン殺しを再現する考えに至った。同じような手口の殺人事件が続けば、ボーソレイユの仕業ではないと証明できるというわけだ。書籍『ファミリー シャロン・テート殺人事件』には、「娘たちの一人が見たある映画の中に、ある期間内に模倣殺人を行うことで、殺人犯を刑務所から釈放させる計画がでてきたという」とあるから、何とも無教養でお粗末な動機だったことがわかる。

マンソンが劇的な殺人事件のターゲットに選んだのは、ポランスキー邸だった。自分の歌手デビューの夢を蔑ろにしたテリー・メルチャーが住んでいた家である。マンソンは3月の訪問の時点でテリーがこの家から引っ越していたことは分かっていたものの、今は誰が住んでいるか知らなかった。しかし、気に食わないハリウッドの金持ちたち、つまり「豚」共に一矢報いることが出来るのに変わりはないし、テリーを震え上がらせることも出来るだろう。こんな程度の理由から、シャロンの運命が決められてしまった。

1969年8月9日 シャロン・テート殺人事件

ここからは、シャロン・テート殺人事件の犯行内容に関する描写が含まれます。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でマーゴット・ロビーが演じるシャロン・テート。

8月8日の夜、シャロンは、元婚約者で世界的なヘア・スタイリストのジェイ・セブリング、夫ポランスキーの親友ヴォイテック・フライコウスキーとその恋人でコーヒー財閥の相続人アビゲイル・フォルジャーと共に、メキシカン・レストランのエル・コヨーテで夕食を共にしていた。夫ポランスキーは仕事のため、ヨーロッパ旅行に出かけていて不在にしていた。

夜11時。この後訪れる陰惨な事件の実行犯となるテックス・ワトソンサディケイティ(パトリシア・クレンウィンケル)、そしてリンダ・キャサビアンは、スパーン牧場で車にボルト・カッターやナイロン・テープを積んでいた。出発するとき、マンソンが助手席の窓から頭を入れて、こう指示したという。

「サインを残してこい。どう書いたらいいか分かるな。魔術めいた怪しげな言葉を書き残してこい。」

0時を跨ぎ、日付は8月9日になった。シャロンは、夕食を共にした3人と邸宅でくつろいでいた。妊娠中で夫も不在のシャロンが不安にならないようにと、友人たちはできるだけシャロンと一緒にいてあげたのだ。フライコウスキーは、リビングのソファに横たわっていた。アビゲイルは、別の寝室のベッドで本を読んでいた。2人とも、ドラッグを摂取して軽い陶酔にあった。身重のシャロンはまた別の寝室のベッドで横になって、その脇に腰掛けていたジェイと話し込んでいた。

テックスの一味がポランスキー邸に到着し、車を降りて侵入口を探していた。その姿を運悪く見てしまったのが、ポランスキー邸から車で帰宅するところだったスティーヴン・ペアレントという若い男だった。ここの管理人に、ラジオ機器の飛び込み営業を行っていたのだ。テックスはペアレントの頭に拳銃を突きつけた。「殺さないで!見たことは誰にも喋らないから!」とこの若者は命乞いをしたが、テックスは構わずに4発を撃ち込み、ほぼ同時にナイフで刺し傷も与えた。ペアレントは助手席に倒れ込むようにして即死した。この惨たらしい夜の、1人目の犠牲者である。

悪魔の仕事をするためにここに来た

テックスは邸宅の網戸を切り裂いて、一味は中に侵入した。リンダだけは、見張りのために邸宅の外で待機することになった。彼らが最初に発見したのは、ソファでまどろんでいたフライコウスキーで、目を覚まして「今何時だ?」と言った。ソファの後ろに立ったテックスは「動くと殺すぞ」と凄む。誰だ、と尋ねられ、テックスはこう言った。

「俺は悪魔だ。悪魔の仕事をするためにここに来た。」

彼らはフライコウスキーの両手を、浴室から調達してきたタオルで後ろ手に縛った。家の中にいる他の人物を一箇所に集めるために、サディが中二階に上がった。寝室を横切った時、ベッドで読書中だったアビゲイルと目があった。ドラッグに軽く酔っていたアビゲイルは、サディの姿を見ると笑顔で手を振った。サディも微笑み返し、歩き去った。別の寝室でシャロンとジェイの姿も確認したが、2人は話に夢中の様子で、この悪魔の女に気づいていなかった。

リビングに戻って寝室に人がいたことをテックスに報告すると、ここに連れてこいと命じられたので、ナイフを使って3人をリビングに集めた。テックスは4人に、うつ伏せになれと命令した。ジェイが「シャロンは妊娠してるんだぞ!分からないのか!」と怒ると、これがテックスの猟奇性を引き出してしまった。テックスはジェイの脇の下を銃撃し、さらに顔を蹴り落とした。

テックスは、シャロンとアビゲイルの首にナイロン・ロープを巻きつけて、天井の梁にかけ、ギリギリつま先立ちにならないと首が絞まる長さに調整して、ロープの反対側を撃たれてうずくまっているジェイの首に巻きつけて錘(おもり)にした。彼らの計画には、犠牲者たちをロープで吊し上げてナイフでめちゃくちゃに切り刻むというものもあった。LSDをキメていたテックスは、目の前の人間が作り物のように見えていたらしい。

ナチの強制収容所を生き抜いたタフな経歴の持ち主であるフライコウスキーは、タオルで縛られていた両手をなんとか解放した。ナイフを握っていたサディの髪を掴んで引き倒し、彼女の頭を殴った。もみくちゃになって倒れ込んだが、残念ながらナイフを持っていた小娘の方が上手だった。サディはその刃物で、フライコウスキーをブスブスと何度も刺した。狂乱のサディはその間、ナイフを見失う。フライコウスキーは生命の限りを振り絞って、よろめきながら逃げ出そうとした。そこにテックスが迫り寄って、至近距離で2発撃ち込んだ。テックスはもう一度引き金を引いたが不発だったので、銃を逆手に持ち直して柄の部分でフラウコウスキーの頭部を力いっぱいに殴打した。それでも命を繋ぎ止めていて、叫びながら外の芝生に逃げ出した。遂に倒れると、テックスが走り寄ってきて、馬乗りになってめった刺しにした。フライコウスキーの遺体からは、51箇所の刺し傷が見つかっている。屋外の見張り役としてこの様子を見ていたリンダは、繰り広げられる惨劇にすっかり怯え、後悔し、神に赦しを祈っていた。

テックスは邸内に戻って、縛られたロープを解こうとしていたシャロンの元婚約者ジェイを4回刺して、顔面を蹴り込んだ。次はアビゲイルが逃げ出したので、電光石火のごとく追いかけた。彼女は抵抗力を失っており、「もうだめ、殺して」と言った。テックスはアビゲイルの喉首をかき切り、頭を殴り、身体のあちこちを何度も刺した。まだ生きていたアビゲイルは逃げようとするが、後ろからサディに刺される。

この間、シャロンは首をロープで縛られただけで無傷だった。殺人鬼たちは、「他のものが死んでゆく光景を目撃させるために」シャロンを最後まで取っておいたのだという証言が残っている。サディがシャロンの両腕または両脚を後ろから押さえつけると、シャロンは「殺さないで、お願い。殺さないで。死にたくない。お願い。赤ちゃんを産みたいの」と懇願した。「あんたが赤ん坊を産もうと産むまいと、知ったことじゃないわ!覚悟しな、死ぬのよ、あんたは」とサディが激昂した。テックスの自伝『Will You Die For Me?』によれば、シャロンはすすり泣きながら、「私を殺すのは赤ちゃんを産んだ後にして下さい」と懇願したという。テックスはそれでも良いなと思ったが、その時ケイティが「殺せ!」と絶叫した。するとテックスの頭の中で、マンソンの「殺せ」という声がぐるぐると駆け巡った。

シャロンの始末を誰がつけるのかという話になり、サディとケイティはためらった。そこでテックスが率先することになって、シャロンを数回刺して殺した。サディとケイティも加わって、既に絶命しているシャロンを3人でザクザクと刺した。後にサディは、「とっても気持ちが良かった」との感想を残している。合計16箇所の刺し傷が残されたシャロンは、間もなく産まれてくるはずだった赤ちゃんを身籠ったお腹を横にして、アメリカ国旗がかけられたソファに背を向けて血まみれで倒れていた。

テックスは走って建物を飛び出し、犠牲者の死を確実にするためにアビゲイルの遺体をさらに数回刺した。フライコウスキーも刺し直して、シャロンの切り傷も増やしておいた。サディはシャロンの血で、壁に「豚(PIG)」と残した。彼らは、「悪魔の仕事」を遂行した。

マンソン・ファミリーの逮捕まで

自分たちが殺したのが誰だったのか、テックスたちは翌日のニュース番組を見て初めて知った。サディは、殺した女がハリウッドの有名人だったと知って大喜びしたという。マンソンも喜んだが、その仕事の手荒さが気に食わず、今度は自分が指揮を取って殺人劇を繰り広げることにした。そこで次に選んだのは、グリフィス公園のすぐ南のロシフェリッツ地区にあったレノ・ラビアンカとローズマリー・ラビアンカ夫妻邸だった。やはり、マンソンはここに誰が住んでいるか知らなかったが、以前この隣家でパーティに出たことがあって、その時に家の様子を観察していた。こんな所に家を構えているハリウッドの金持ちどもが気に食わない。人を殺す理由はそれで充分だった。

今度はマンソンがラビアンカ邸に侵入して、夫妻を縛った。「騒ぐな、傷つけるつもりはない」と諭して、金だけ奪って出た。そして、外で待機していた手下たちに殺しを指示すると、夫婦はポランスキー邸の時と同じようにむごたらしく殺害された。遺体にはナイフで「X」「WAR」と刻まれ、壁には「ブタどもに死を(Death To Pigs)」「HEALTER SKELTER(HELTER SKELTERの綴り間違い)」「RISE」の血文字が残された。「RISE」は、ビートルズの「レボリューション9」で聞こえてくる声で、ヘルター・スケルターに備えて「立ち上がれ」というメッセージだと解釈した、マンソンお気に入りの標語だった。実行犯らはたった今殺し終えたその家の中で、のんびりと食事をして、シャワーを浴びて、そしてスパーン牧場に帰った。

この壮絶な事件の捜査は、なかなか進まなかった。その間に人々は、麻薬関係のトラブルが招いた悲劇だとか、悪魔崇拝者たちの儀式殺人だとか、様々な憶測や噂を立てた。メディアの報道も、そうとう加熱していた。ある時には、ポランスキー邸の現場に落ちていた眼鏡が、犯人につながる重要な手がかりだと見なされた(もちろん、この眼鏡はテックスらのものではない)。ハリウッドの眼鏡士が、警察に依頼されて調査したところ、妙に曲がっていたその眼鏡の持ち主は強度の近眼で、常人よりかなり低いところに耳があり、頭の形が異常に丸いという鑑定を下した。(後日、ポランスキーが事件前からシャロンと共に親しくしていたブルース・リーに格闘技のレッスンを受けた際、リーが眼鏡を失くしたと言った。このときポランスキーは、もしかしてリーが犯人ではないかと疑った。)

日本の映画雑誌は

当時の日本の映画雑誌は、この事件をどう取り扱っていたのだろうか。1969年に遡ってバックナンバーを調査してみると、まず「キネマ旬報」(キネマ旬報社)は、ポランスキー特集をもって報いた。新進気鋭だったシャロンについては、ほとんど触れられていない。「スクリーン」(近代映画社)は、8月21日発売の10月号で、シャロンのグラビアを1ページで1カット掲載した。事件があったのが9日だったので、入稿がとても間に合わなかったのだろう。ブルーのブラウスを羽織ったシャロンが、晴れの芝生で座って笑顔を見せている。「シャツ・ブラウスの下は裸です。吹き抜ける風が遠くから運んでくる秋の匂い。シャロン・テートのブロンドの髪とたわむれる日ざしも明るく澄んで、待ちに待ったシーズンのはじまりです。

翌9月22日刊行の11月号では、事件を受けて「ハリウッドスターをめぐる犯罪調書」と「ハリウッド 真夏の夜の悪夢 シャロン・テートとその惨殺事件」というコラムが掲載された。「ロサンゼルス警察はいまだに犯人の手がかり皆無で」という時点で書かれた前者のコラムでは、「この事件によって、あらためて世界にクローズアップされたのは、虚飾にみちた映画の都ハリウッドの、想像を絶する退廃ぶりであった」と記した。

「ハリウッド 真夏の夜の悪夢」では、「残酷で、陰惨で、何ともやりきれない、”真夏の夜の悪夢”のような殺人事件だった。あの可愛いスタア、シャロン・テートが無残にも殺されたのだ」と書き始め、事件の概要をまとめた。

警察の発表によると、犯人は全然気づかれずに邸内に侵入、電話線を切ったあとにナイフと銃で犯行におよび、玄関のドアに「ブタ」という血文字を書きなぐったものらしいが、さてその犯行の動機は?となるとまるで分からない。

マンソン逮捕へ

シャロン・テートとその友人たち、およびラビアンカ夫妻の殺人は、総称してテート・ラビアンカ殺人事件と呼ばれるようになっていた。この事件から一週間も経たぬうち、警察が車両窃盗の疑いでスパーン牧場にガサ入れを行って、マンソンは他のメンバーたちと共に逮捕された。ただしこの時点で警察は、マンソン・ファミリーを殺人事件の容疑者だとは見なしていなかった。しかも、証拠不十分で全員釈放となっている。

捜査が急展開を迎えたのは、10月になってからだった。ヒンマン殺しの犯人の1人ボーソレイユの恋人であるキティ・ルートシンガーが逮捕され、自分の無実を証明するためにファミリーの悪行を白状したのだ。そして、別の軽犯罪で逮捕されていたサディが、テート事件の真犯人は自分だと同房囚にベラベラと自慢した。例えば、先の眼鏡士が鑑定した犯人像など、世間で伝えられている事件の情報が大外れだったことが愉快で仕方ない様子で、「本当はそんなんじゃなかったよ」と得意げに話していた。この同房囚が看守にタレこんで、ここから芋づる式に実行犯やマンソンの逮捕に繋がった。

シャロン・テート殺人事件の実行犯であるテックス、サディ、ケイティには死刑が言い渡され、マンソンは死刑8件、終身刑3件を宣告された。しかし、当時カリフォルニア州では一時的に死刑が廃止され、マンソンも自動的に終身刑に繰り下げになった(後に死刑制度は復活したが、マンソンの身に影響はなかった)。マンソンは公判中や獄中でもスーパースターのように振る舞い、相変わらず世間の注目を集めた。

1981年、獄中のマンソンは事件後初のテレビインタビューに応じた。今でもYouTubeで視聴できるこの映像は異様な緊迫感に包まれていて、まずマンソンは「俺は誰も見上げない」として椅子に座ろうとしない。そのためインタビュワーは、この男を畏れるように見上げて質問しなければならなかった。「死刑を免れて安心したか」という最初の質問には、「俺は死刑にならないと思ってたよ。だって悪いことは何もしていないから」とケロリと答えた。「死が怖いか」と尋ねられると、両手を広げてこう答えた。「時々、生きていることの方が怖いね。俺は生を恐れる。死など易しい。」

マンソンは2017年11月19日まで生きて、最期は急性心筋梗塞で死んだ。シャロン・テート殺人事件の実行犯であるサディは2009年9月24日に、「アーメン」と囁いて獄中で自然死を遂げた。テックスとケイティは、本記事時点で存命である。

死の3ヶ月前のチャールズ・マンソン。

シャロン・テート殺人事件の1週間後、ニューヨークでは伝説のウッドストック・フェスティバルが開催された。約40万人の観客を集めたこの祭典はヒッピー文化の歴史における頂点であり、同時に形骸化を始めていたこの文化の最後の一咲きであると言われている。「しかし、ヒッピー・ムーブメントは、ウッドストックの開幕より前にもう終わっていた。ただしヒッピーたちは気づいていなかった。」米Viceは、記事「チャールズ・マンソンはいかにしてヒッピー・ムーブメントを終わらせたか(How Charles Manson Put an End to the Hippie Movement)」でこのように書いている。「テート・ラビアンカ殺人事件が起こってから、南カリフォルニアはヒッピー・ムーブメントに対するパニックと恐怖に陥った。もう誰もヒッチハイカーを拾わなくなり、長髪で髭を蓄えた若者は全員が”殺人狂のカルト”と見なされた。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

ハリウッドに忌々しい闇を落としたこの事件は、クエンティン・タランティーノ監督作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に登場する架空のTVスター、リック・ダルトンとその相棒でスタントマンのクリフ・ブースにも降りかかる。昔々(Once Upon A Time)、ハリウッドで何が起こったのか。果たしてタランティーノは、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットが奇跡の初共演を果たしたこの特別な作品で、シャロン・テート殺人事件をどう描くのか。この記事を読んだなら、本作の意義を幾重にも増して堪能できるはずだ。安心して劇場に出かけてほしい。映画では、シャロン・テートをマーゴット・ロビーが、チャールズ・マンソンをデイモン・ヘリマンが演じている。

映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、2019年8月30日(金)公開。

監督・脚本:クエンティン・タランティーノ
出演:レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、マーゴット・ロビー、エミール・ハーシュ、マーガレット・クアリー、ティモシー・オリファント、ジュリア・バターズ、オースティン・バトラー、ダコタ・ファニング、ブルース・ダーン、マイク・モー、ルーク・ペリー、ダミアン・ルイス、アル・パチーノ
公式サイト:http://www.onceinhollywood.jp/
公式Twitter:https://twitter.com/SPEeiga
公式Facebook:https://www.facebook.com/SPEeiga/

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参考:エド・サンダース(1974)『ファミリー シャロン・テート殺人』(上・下)小鷹信光訳,草思社
コリン・ウィルソン(2004)『現代殺人百科』関口篤訳,青土社
Vincent Bugliosi(1974)”HELTER SKELTER”,Arrow Books
『スクリーン』1969年10月号・11月号,近代映画社
Will You Die For Me?,Vice,Yahoo,60 Minutes Australia
映画『チャールズ・マンソン』(2002)

Writer

中谷 直登
中谷 直登Naoto Nakatani

THE RIVER編集長。ライター、メディアの運営や映画などのプロモーション企画を行っています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。

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