Menu
(0)

Search

【追悼】原点にして頂点…ジョージ・A・ロメロのゾンビ映画はどこまでも残酷でどこまでも解放的だった

追悼 ジョージロメロ

ロメロ=「ゾンビ映画の巨匠」でいいのか?

2017年716日、ジョージ・A・ロメロ監督が77歳にして亡くなった。

自分はその約1週間前、THE RIVER「リアル・バイオレンス映画監督」のベスト10を発表する記事を寄稿し、文中でロメロのことを「原点にして頂点」と形容した。ロメロは「ゾンビ映画」というジャンルの創始者だと報道されているが、ロメロを超えるゾンビ映画を自分はまだ見ていない。

これがどんなにすさまじい偉業なのか?たとえば、ジョン・フォードは西部劇を代表する映画監督だが、西部劇を作り出したわけではない。『ジャズ・シンガー』(1927)は世界初のトーキー映画と言われているが、より優れた音声付映画は山のようにある。ロメロ以前に全くゾンビ映画が存在しなかったわけではないものの、後世にまで残るゾンビ映画のマナーを整理し、金字塔として君臨し続けているロメロは神の所業を成し遂げた映画監督だといっても過言ではない。

しかし、ロメロの素晴らしさを語る際、ジャンル論に留めてしまうとあまりにも多くの美点がこぼれ落ちてしまう。ここでは、ロメロの代表作である『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)と『ゾンビ』(1978)をあえて、「ゾンビ映画的」な見方から離れて分析していきたい。ロメロは「ゾンビ映画の巨匠」であったと同時に、「映画作家」として優れていたはずだからだ。

追悼 ジョージロメロ

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に見る道徳性

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はロメロ最初期の傑作にして、現在のゾンビ映画の定番を確立させた記念碑的作品である。しかし、改めて見返すと、ゾンビ(ちなみに本作ではまだ「ゾンビ」とは呼称されていないが)たちの「個性」に驚かされる。低予算ゆえにエキストラが数多く用意できなかったという事情もあるだろう。しかし、ウェイトレスや紳士、パンツ一丁のオヤジなど、本作のゾンビたちの明確なキャラクター付けには心動かされずにはいられない。

一方で、家屋に立て篭もり、ゾンビの襲撃を凌ごうとしている人間たちの共感しがたい人物造形には戸惑いを覚える観客も多いだろう。主人公の黒人、ベンこそ緊急事態においても思考を止めず合理的な対策を練り続けてはいる。しかし、兄を殺された女性、バーバラはショック状態からほぼ全編、抜け殻のように座り込んでいるだけだ。ベンに盾突くだけで利己的な振る舞いしかしない中年男性のハリーや、衝動的な言動が目立つ若いカップルなど、他の登場人物はベンの足を引っ張り続ける。

そして、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は極めて「道徳的」な作品でもある。家屋に逃げ込んだ登場人物たちはベン以外、自業自得に近い最期を迎えていく。かくいうベンも穢れなき存在ではいられない。激情に駆られてハリーを殺害してしまったベンは、クライマックスでゾンビと間違われて射殺される報いを受ける。

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は残酷な物語だが、罪もない人間が殺されてしまう多くのホラー映画のような理不尽さはない。ゾンビの大量発生という特殊な状況が、登場人物の人間性を試し、審判していくのだ。本作ではゾンビ発生の原因として放射能が示唆されている。公開当時のアメリカは核実験を繰り返している最中だった。本作の世界観はリアルタイムのアメリカでは絵空事ではなかったのかもしれない。放射能を口から吐く怪獣が東京を襲う『ゴジラ』(1954)が、被爆から10年も経たないうちに公開されたからこそリアルな恐怖を伴ったように。そう、『ナイト・オブ・ザ・リブングデッド』はモンスター映画でありながら、人間の業についての物語でもあったのだ。

『ゾンビ』で真に恐ろしい存在は誰か?

ゾンビ映画の決定版となった『ゾンビ』もまた、ゾンビ以上に人間たちの行動に恐怖する作品である。なるほど、確かに人間の内臓を引きずり出し、我先にと食らいつくゾンビたちはおぞましい集団だ。しかし、その前に笑いながらゾンビたちを攻撃していた若者たちはどうなのだろうか?ショッピングモールで高価な商品を略奪し、人間同士で銃撃戦を行っていた彼らには非がないのだろうか?「緊急事態では仕方がない」と弁護できないほど、彼らの行為は暴走を極めている。

しかし、彼らを迎撃した主人公たち側もまた、正義の側にいない。テレビ局員のフランとスティーブ、SWAT隊員のピーターとロジャーがショッピングモールに辿り着いたのは、ゾンビの攻撃を逃れるための非常手段だった。しかし、一度ゾンビの撃退に成功すると彼らは状況を愉しみだす。高級食材でディナーを満喫し、毎日が娯楽の連続だ。高価な服装に身を包んだ彼らは、映画の開始時点よりも終盤の方が洒落て見える。モールに足を踏み入れた直後、画面にはマネキン人形が何度もインサートされる。欲望のままに商品をむさぼるフランたちと暴漢たちは、人間味のないマネキンと何が違うのだろう。生理的欲求に基づき、人肉を求め続けるゾンビたちのほうが純粋かもしれない。

SWAT隊員のピーターは、当初こそゾンビたちを退治するときに苦悩の表情を浮かべている。しかし、やがて銃を撃つその表情に笑みが浮かぶようになっていく。ピーターがゾンビと化した戦友のロジャーを自らの手で殺めるのも、ピーターに課せられた罰のように見える。

全てのしがらみから解き放たれた生

ロメロのゾンビ映画は、観客の抱く「悪」の概念を揺り動かす。ゾンビを悪と捉える向きもあるだろうが、人を食べる獣をあなたは悪と呼ぶだろうか?ゾンビの行動には少なくとも悪意はないのだ。ゾンビの襲撃が社会を崩壊させた世界では、文明が蓄積してきた価値観は意味をなさない。人間を善悪に分ける物差しについて、ロメロは観客に問いかける。それは地位や人種や暴力でないことは確かだ。言うなれば「人間性」という陳腐で真っ当な結論をロメロは人間の価値だと示していたのである。ここで言う「人間性」は別に正義を振りかざしたり、誰かのために犠牲になったりすることではない。ただニュートラルな視点で「生」を願い続ける意志のことだ。

そして、ロメロのゾンビ映画は虚無的でも冷笑的でもないとは強く言っておきたい。強いて言うなら、ロメロのゾンビ映画は解放的である。『ゾンビ』のラスト、フランはショッピングモールに見切りをつけ、ヘリコプターで飛び立っていく。自殺を思い留まり、ピーターもヘリコプターに飛び乗る。もう彼らは物欲の世界に未練はない。燃料のないヘリコプターはすぐ行き場所を失い、二人は間もなく死ぬかゾンビになるだろう。それでも二人は生きている。他の何よりも生を選び取ったからだ。ロメロのゾンビ映画だけが、絶望下で一点の希望もなく、それでも生を願う人間を映し出していた。『ゾンビ』のラストショットに映る早朝の空は、全てのしがらみから解き放たれた生を称えている。 

 

言うなれば、ロメロにとってのゾンビ映画は『ゾンビ』のラストと共に幕を閉じている。その後、『死霊のえじき』(1985)で再びゾンビを登場させたとき、ロメロはすでにゾンビ映画のスタイルを発展させてより広範囲のテーマを描き出すようになっていた。ロメロもまた、ゾンビ映画というしがらみに捉われることなく、秀作を発表し続けたのだ。だからこそ、我々もロメロを「ゾンビ映画」に押し込めない再評価をしていく必要があるだろう。

Eyecatch Image:nicolas genin – originally posted to Flickr as 66ème Festival de Venise (Mostra) Remix by THE RIVER

Writer

アバター画像
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

Ranking

Daily

Weekly

Monthly