【追悼】原点にして頂点…ジョージ・A・ロメロのゾンビ映画はどこまでも残酷でどこまでも解放的だった

SWAT隊員のピーターは、当初こそゾンビたちを退治するときに苦悩の表情を浮かべている。しかし、やがて銃を撃つその表情に笑みが浮かぶようになっていく。ピーターがゾンビと化した戦友のロジャーを自らの手で殺めるのも、ピーターに課せられた罰のように見える。
全てのしがらみから解き放たれた生
ロメロのゾンビ映画は、観客の抱く「悪」の概念を揺り動かす。ゾンビを悪と捉える向きもあるだろうが、人を食べる獣をあなたは悪と呼ぶだろうか?ゾンビの行動には少なくとも悪意はないのだ。ゾンビの襲撃が社会を崩壊させた世界では、文明が蓄積してきた価値観は意味をなさない。人間を善悪に分ける物差しについて、ロメロは観客に問いかける。それは地位や人種や暴力でないことは確かだ。言うなれば「人間性」という陳腐で真っ当な結論をロメロは人間の価値だと示していたのである。ここで言う「人間性」は別に正義を振りかざしたり、誰かのために犠牲になったりすることではない。ただニュートラルな視点で「生」を願い続ける意志のことだ。
そして、ロメロのゾンビ映画は虚無的でも冷笑的でもないとは強く言っておきたい。強いて言うなら、ロメロのゾンビ映画は解放的である。『ゾンビ』のラスト、フランはショッピングモールに見切りをつけ、ヘリコプターで飛び立っていく。自殺を思い留まり、ピーターもヘリコプターに飛び乗る。もう彼らは物欲の世界に未練はない。燃料のないヘリコプターはすぐ行き場所を失い、二人は間もなく死ぬかゾンビになるだろう。それでも二人は生きている。他の何よりも生を選び取ったからだ。ロメロのゾンビ映画だけが、絶望下で一点の希望もなく、それでも生を願う人間を映し出していた。『ゾンビ』のラストショットに映る早朝の空は、全てのしがらみから解き放たれた生を称えている。
言うなれば、ロメロにとってのゾンビ映画は『ゾンビ』のラストと共に幕を閉じている。その後、『死霊のえじき』(1985)で再びゾンビを登場させたとき、ロメロはすでにゾンビ映画のスタイルを発展させてより広範囲のテーマを描き出すようになっていた。ロメロもまた、ゾンビ映画というしがらみに捉われることなく、秀作を発表し続けたのだ。だからこそ、我々もロメロを「ゾンビ映画」に押し込めない再評価をしていく必要があるだろう。
Eyecatch Image:originally posted to Flickr as 66ème Festival de Venise (Mostra) Remix by THE RIVER –