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『シャザム!』小さな大人と大きな子供の物語 ─ アメリカの重要なテーマ「無垢さ」について

シャザム!
「シャザム!」(C) 2019 Warner Bros. Entertainment Inc. SHAZAM! and all related characters and elements are trademarks of and c DC Comics.

フィラデルフィアの夜景を見下ろしながら、筋肉ムキムキのスーパーヒーロー、シャザム(ザッカリー・リーヴァイ)がスナック菓子をほおばっている。隣にいるのは足の悪い少年、フレディ(ジャック・ディラン・グレイザー)だ。

「ロッキーもこんな気持ちだったのかな」。地元が舞台の映画をぽつりと口にするシャザムは、巨漢に似つかわしくないほど純朴である。それもそのはず、彼の本当の姿は14歳の少年なのだから。

『シャザム!』(2019)はDC映画ユニバース(DCEU)の最新作である。そして、作風はDCEUの前作『アクアマン』(2019)と同様、コミカルなタッチに振り切れている。たとえば、『マン・オブ・スティール』(2013)や『ジャスティス・リーグ』(2017)にあった重苦しさはここにない。DCEUの方向転換は完全に吉と出ており、『シャザム!』には終始、娯楽作品としての抜けの良さが漂う。しかし、本作は何から何まで能天気なアクション大作でもない。本作の設定には、アメリカのフィクション作品の多くに共通する「無垢への渇望」が見てとれるのだ。

この記事では、映画『シャザム!』の内容に言及しています。ストーリーの詳細についてのネタバレはございませんが、あらかじめご了承ください。

シャザム!
©2019 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

「小さな大人」に見える主人公・ビリー

本作の主人公、ビリー・バットソン(アッシャー・エンジェル)の14年の人生は波乱万丈だ。彼は幼いころ、クリスマスのお祭りで母親とはぐれてしまう。それ以後、孤児となったビリーは家出を繰り返しながら、名前だけを頼りに母親の捜索を続けていた。ある日、ついに警察の厄介になったビリーは半ば強制的にグループホームへと送られる。家主夫婦はいずれも善人だったが、ビリーは納得できなかった。自分の居場所はここじゃない。きっとママも僕を待っているはずなんだ!

家主はもちろん、養兄弟たちにさえビリーは心を開こうとしない。食事の際、家主と義理の姉弟たちは手を重ね合わせお祈りを唱える。彼らはみんな家族なのだ。かたや、ビリーは手を伸ばそうともしない。あるときなど、食事中に口論をして席を立ってしまう。ビリーの複雑な心情を理解してもなお、大人の観客は心を痛めてしまうだろう。これでは、あまりにも家主夫婦が不憫である。

そう、ビリーは決して多くの観客が感情移入できるようなタイプの主人公ではない。なぜなら、ビリーの心があまりにも傷つき、孤独に震えているからだ。観客もほかの登場人物もビリーに近づこうとすればするほど、彼との距離が遠ざかっていく。過酷な生い立ちは少年時代を奪い、ビリーを「小さな大人」に変えてしまった。それゆえに、彼が偶然にスーパーパワーを手に入れ、シャザムに変身できるようになった後の描写が際立ってくる。

シャザムになったときだけ解放される無垢さ

ビリーに力を明け渡した老魔法使いは、その場で塵と消える。彼はビリーに世界の命運を左右するほどの使命を託したのだ。そして、ビリーは「シャザム」と唱えるだけで、剛力と豪速、稲妻を操る巨漢に変身できるようになる。ところが、ビリーには使命などどうでもいい。やることといえば、フレディのプロデュースで面白動画を撮り続けるだけ。たまには人助けもするものの、偶然見かけた暴漢をこらしめる程度にすぎない。しかし、シャザムになったビリーは心から楽しそうだ。人気者になったシャザムは、ビリーの状態では見せなかった屈託のない笑顔でテレビの前に立つ。その瞬間、ビリーの失われた少年時代は確かに取り戻されている。

シャザム!
©2019 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

ここに、『シャザム!』という映画の奇妙な構造がある。本作は、小さな大人が「大きな子供」へと変身する物語だといえるだろう。そして、ビリーはシャザムになっているときだけ、普段は押し殺している無垢さを解放する。ビリーにとってスーパーヒーローの全能感は、思う存分子供でいられる喜びと同義なのだ。

だからこそ、少年の姿でいるときのビリーはひたすら本当の母親を追い求め続ける。彼はグループホームの面々が向けてくれる優しさを感じとれていない。彼を子供にしてくれるのは、生き別れの母親だけだと信じているためだ。不良生徒に絡まれ、窮地に追い込まれたフレディさえもビリーはあっさりと見捨てる。フレディはビリーを頼るしかなかった。でも、ビリーはそうではない。ビリーにとってフレディは、対等な立場で関係を構築しなくてはいけない面倒な相手である。ビリーが求めているのはあくまで、自分の無垢さを包み込んでくれる絶対的な存在なのだ。シャザムの力のように。真実の母性のように。

Writer

石塚 就一
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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