【追悼ジョナサン・デミ】傑作『羊たちの沈黙』(1990)からその作風を振り返る─ 被写体との距離、演出

劇中の印象的な場面としてジョディ・フォスター演じるクラリスとアンソニー・ホプキンス演じるレクター博士の最初の対面の場面が挙げられます。このレクター博士の独房でのクラリスとレクター博士の会話は会話劇のお手本のような場面で、レクター博士が紡ぎだす言葉の全てがどこまでも印象的です。
ジョナサン・デミはこのシーンで極限まで説明描写を削り、ほぼすべてをクラリスとレクター博士の表情の切り返しで構成するという手法を選択しました。これが抜群の効果を発揮しています。
物や情景の描写にカットアウェイすることでこういう会話劇でも目線をそらして「逃げ道」を作ることはできますが、こうして人物ばかりをひたすら映すことで敢えてその逃げ道を塞いでいます。この方法のおかげで名優二人の演技をとことんまで堪能することができます。
クローズアップは素材の良さを活かすのに最も適した手法です。クローズアップになると微細な表情の変化まで仔細に捉えることができます。画面上では顔の全ての箇所が拡大され眉毛をほんの一ミリ動かしただけでも画面の印象が変わります。
それ故にここで大げさな演技をしては台無しです。レクター博士を演じるホプキンスとクラリスを演じるフォスターの演技は完璧で、顔のパーツ一つ一つが雄弁に、それでいて過剰になることなく心情を語っています。名優の演技力あってこその手法ではありますが、的確な手法を選択したデミは慧眼と言えます。
また、クローズアップを多用することで画面構成上の効果もあります。
画面一杯を人物の顔で埋めると画面がタイトになります。タイトな画面には圧迫感があります。
ハンガリー映画『サウルの息子』(2015)では全編で徹底してタイトな画が使われていました。画面いっぱいに常にぎっしりと物と人を詰め込み、さらにアスペクト比を敢えて4:3の縦長の画面にすることで横幅を狭くして徹底的に「狭い」と感じさせる画面を作っていました。
『羊たちの沈黙』はサスペンスで、しかも登場人物の心情が大きく物語に影響する作りです。ジョナサン・デミは物をぎっしり詰め込むのではなく、人物のクローズアップで画面をタイトにする方法を選択しています。こうして物理的かつ心理的に圧迫感を演出することに成功しています。
ある自主映画のコンペでもこういう圧迫感のある物語の作品を見たことがありますが、その自主映画と『羊たちの沈黙』の間には技術レベルの差だけでなく演出センスの差もはっきり見られます。その映画はとにかく寄り方が中途半端でした。人物を主体にし、寄り画を主体にしているのに画面に中途半端なスペースが空いており「圧迫感があるのにゆとりがある」という極めて半端な状態になっていたのです。
一見すると似ているようで、私が見た自主映画の監督とジョナサン・デミ監督の間には明らかにアマチュアとトッププロの差がありました。
日本のテレビドラマと比べて
2017年4月23日のツイートでテレビプロデューサーのデーブ・スペクターが以下の発言をしていました。
つかぬ事を言いますが、全てのテレビ局が全てのドラマを止めた方がいいと思います。進化してないし海外ドラマから何も学習してないし、
相変わらず視聴者を無視する芸能プロダクション先行で不適切なキャスティング。2年間の休憩してリセットする事を勝手ながら勧める。
オチがなくてすみません
— デーブ・スペクター (@dave_spector) 2017年4月23日
つかぬ事を言いますが、全てのテレビ局が全てのドラマを止めた方がいいと思います。進化してないし海外ドラマから何も学習してないし、相変わらず視聴者を無視する芸能プロダクション先行で不適切なキャスティング。2年間の休憩してリセットする事を勝手ながら勧める。オチがなくてすみません
「日本 テレビドラマ つまらない」で検索すると実際に相当な数の記事がヒットします。
ほとんどの記事は「演技」と「脚本」の話に終始していますが、こちらのブロガーさんは演出面の特徴について言及していました。
私もほぼ同意見です。
日本のテレビドラマは画の面で言えば「中途半端」というのが特徴として挙げられます。特に大きく引くでもないフレームサイズの中に左右がルーズで人も横並びみたいなカットが多く見受けられます。こういうショットは位置関係の説明という面で確かに必要です。寄りを主体にする場合も引きを主体にする場合もどこかしらでこういう画を入れないと説明不足になってしまいます。(敢えて使わない場合もたまにありますが)
日本のテレビドラマはこのような半端な画が非常に多いのです。これが言葉は悪いですが「ダサい」印象を残してしまう原因だと思います。