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「英雄を描かない」というスタートライン ― 『オンリー・ザ・ブレイブ』に見る、実話映画の現在

オンリー・ザ・ブレイブ
© 2017 NO EXIT FILM, LLC

「この程度じゃおまえを止められないだろうな」。
森林消防隊「グラニット・マウンテン」の隊長、エミール・マーシュ(ジョシュ・ブローリン)は巨大な山火事を前にしてつぶやいた。まるで炎に向かって語りかけるように。

映画『オンリー・ザ・ブレイブ』2017)はアリゾナ州プレスコット市初のホットショット(精鋭部隊)に認定された消防隊、グラニット・マウンテンの活躍を描いた、実話が基の作品である。アメリカにおいて、ホットショットの称号を得るまでの道のりは平坦ではない。長い年月をかけて訓練を続け、めぐってきた認定審査のチャンスを確実にものにし、ようやく「ホットショット」を名乗れるのだ。しかも、ホットショットになればより過酷な任務が待っている。火事の最前線に立ち、危険な消火作業を行うのがホットショットの役目だからだ。

『オンリー・ザ・ブレイブ』のクライマックスには、アメリカ史上最悪の山火事といわれている2013年のアリゾナ州ヤーネルヒルが待っている。どんなに鍛えられた肉体も、最新の装備も業火の前には歯が立たない。それでも、男たちを動かした原動力とは何だったのか? この記事では、映画における「英雄」の意味を考えていきたい。

「英雄」ではなく「優れた消防隊員」として

実話ベースの映画作品は往々にして登場人物を極端に英雄視しがちである。もちろん、作劇のベクトルとして登場人物をある程度美化するのは「アンフェア」とまで言い切れない。ただし、人物のネガティブな部分にまで目をつむってしまうと、映画は途端に一元的な物語を紡ぎ出してしまう。

好きな意見ではないのだが、アメリカ映画がしばし「傲慢」「自己中心的」と批判を受けるのも、実在した人物たちを英雄視したがる傾向にあるからだ。そして、登場人物を英雄へとまつりあげてしまうほど、彼らの人間的な深みは消え失せていく。主人公が大統領だろうと、将軍だろうと超有名スポーツ選手だろうと、喜怒哀楽をともなった人間であるのは変わらないはずなのに。例外的に完璧な英雄を描いても説得力を失わないのは、キャプテン・アメリカやスーパーマンのような、架空のヒーロー映画だけだろう。

『オンリー・ザ・ブレイブ』が特殊な映画なのは、登場人物たちの「功績」ではなく、「日常」にスポットを当てている点だ。たとえば、グラニット・マウンテンの面々は死地と猛特訓を潜り抜けてきたタフガイたちである。しかし、映画は彼らを英雄ではなく、「優れた消防隊員」として描こうとする。彼らが気高い精神を持ち、感動的なスピーチを行うから映画は盛り上がるのではない。彼らがひたむきかつ効率的に仕事をこなし続けるからこそ、観客は胸を打たれるのだ。 

オンリー・ザ・ブレイブ
© 2017 NO EXIT FILM, LLC

欠点を抱えた男たちばかりのホットショット(精鋭部隊)

筆者は本作を見るまで、森林消防隊員の仕事が「山に火をつけて迎い火にすること」や「長い溝を掘ること」だとは知らなかった。そして、こうした作業をこなすには体力や精神力だけでなく、特殊技能や専門知識も必要だ。そう、グラニット・マウンテンが称えられるべきなのは、大前提として彼らが自らの仕事に誇りを持ち、真面目に働いた「社会人」だったからこそなのだ。

映画に登場するグラニット・マウンテンの隊員たちは、誰もが個性的で素晴らしい職業人である。一方で、「英雄」や「聖人」とはいいがたい人物造形がほどこされてもいる。視点人物の1人であるブレンダン(マイルズ・テラー)は元薬物中毒者で、逮捕歴もある若者だ。関係を持った女性が妊娠したと知っていて、窃盗に走るのだから彼の生活はかなり荒んでいた。ブレンダンの親友となるクリストファー(テイラー・キッチュ)も、女たらしで粗野な男だ。ホットショットを目指す隊にろくでなしのブレンダンが入ってきたことで、最初はひどいイジメを首謀していた。

極めつけは、隊長のエリックだろう。消防隊員としての経験、技術は申し分ない。しかし、頑固な性格が災いし、上層部との折り合いが悪いため、隊がホットショットになれない原因となっていた。また、家庭よりも仕事を優先しすぎて、妻のアマンダ(ジェニファー・コネリー)とも緊張感のある関係になってしまった。

オンリー・ザ・ブレイブ
© 2017 NO EXIT FILM, LLC

『オンリー・ザ・ブレイブ.』は、欠点を抱えた登場人物が「英雄」になる様子を描く映画ではない。そのかわり、彼らが「恥ずかしくない大人の男」になるプロセスを丁寧に見せていくのである。ブレンダンには父親としての自覚が芽生え、胸を張って娘を抱ける日が来るだろう。クリストファーは新入りへの寛容さを身につけ、真の愛に目覚めるだろう。そして、エリックはアマンダとの関係にあるべき着地点を見出すだろう。

登場人物が等身大の人間として描かれた理由

後半、グラニット・マウンテンはプレスコット市の英雄となり、メディアで大きく取り上げられるようになっていく。無理もない。プレスコット市で初めてホットショットが誕生し、大活躍を見せたのだから。しかし、当の本人たちは「街のため」でも「アメリカのため」でもなく、「自分自身の誇りのため」と「家族のため」に火事と戦っていた。『オンリー・ザ・ブレイブ』には壮大なメッセージを強く掲げるようなタイプの映画ではない。ただ、大人の観客を「彼らのように自分たちもやるべきことをやるだけだ」と励ます映画なのである。

どうして、『オンリー・ザ・ブレイブ』はグラニット・マウンテンを等身大の人間として描いたのか? おそらく、それこそが彼らの生きてきた証だからだ。もちろん、本作のエピソードの多くは創作だろう。それでも、実在の隊員たちと大きく乖離した人物造形は行われていないはずだ。過去の出来事を美化し、「神話」とか「伝説」と呼ばれるレベルにまで昇華するのを悪とは言わない。しかし、それは長い年月の中で自然に行われるべきであって、作為的に生み出された神話は「プロパガンダ」と混同される恐れを多分に含んでいる。何よりも、実在した人々の意思や感情を無視してしまう結果にならないだろうか。

『オンリー・ザ・ブレイブ』のような映画がアメリカでごく普通に作られ、ごく普通に受け入れられている状況は、貴重だと感じる。もしも、ある国家から「神話化」を狙って制作された作品が連続して生まれているなら、国家が自らを正当化しようとしている証拠だからだ。ちょうど、第一次・第二次世界大戦前後のアメリカで西部劇や戦争映画が大量生産されたように。

言うまでもなく、作品の完成度は政治的意図と別に評価されるべきだとは思う。ただ、少なくとも現在のアメリカは「英雄」という言葉の虚しい響きに気づきつつある。ゼロ年代以降、アメリカではイラク戦争やサブプライム、オバマ政権からトランプ政権への移行といった国家のアイデンティティに関わるトピックが相次いだ。逡巡した末に導き出した倫理観の具現化として、筆者は『オンリー・ザ・ブレイブ』を興味深く鑑賞した。

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。