『沈黙 -サイレンス-』ロドリゴの信仰の行方 ─ 遠藤周作『死海のほとり』から読み解く神の存在

2017年1月21日(土)に日本公開となった、マーティン・スコセッシ監督最新作『沈黙 -サイレンス-』。この映画は遠藤周作氏の同名小説『沈黙』の映画化である。3年前に遠藤周作の『沈黙』に出会って以来のファンである筆者は、公開初日の朝一の上映に期待に胸を躍らせながら足を運んだ。
日本からは窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形など、豪華俳優陣が参加し、日本国内での前評判も随分と高まっていた。記者会見の様子はこちらの記事から。
https://theriver.jp/silence-press-conference/
マーティン・スコセッシ監督は、28年前に原作に触れてからずっと構想を描いていたという。事前のプレス取材でも本作品に込めた静かだが強かな熱意が伺える。170分に及ぶ大作、スコセッシ監督がこれまで懐で温め続けた作品が遂に封切られた。
ジャパンプレミアの様子はこちらの記事から。
https://theriver.jp/silence-japan-premiere/
暗がりの中劇場の座席につき周りを見渡すと、劇場はほぼ満員。しかし、自分と同じ年頃(20代後半)の若者よりも年配の方々がずっと多かった。
この記事は、筆者と同じ20代の若者に読んでもらいたいと思っている。それは、キリスト教やその他の異教徒に対する考え方を深めるためだ。
筆者の切支丹(キリシタン)についての知識といえば、聖フランシスコザビエルが日本を「黄金の国、ジパング」と誇張し、キリシタンの宣教師たちが九州にやって来たものの、そこで厳しい弾圧に遭い、島原の乱でキリシタンたちが一揆を起こして暴れた、という程度の理解に止まっている。
これではお恥ずかしながら、異国の宗教に対しての考えが浅いと言わざるを得ない。そのような己の浅知恵に対する自己批判の意味を込めて、この記事を書くことにした。
『沈黙 ─サイレンス─』あらすじ
1637年に起きた島原の乱が鎮圧されて間もない頃、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついにキリスト教に背くか否かの選択に迫られる。
神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、<神の沈黙>という永遠の主題に切実な問いを投げかける。遠藤周作の書き下ろし長編小説を映画化した。
原作の具体的な話はこの記事に詳しい。
https://theriver.jp/silence-novel/
ここからは『沈黙 ─サイレンス─』で語られる物語のハイライトを辿りながら、筆者なりに辿り着いたキリスト教に関する見解を述べたいと思う。尚、セリフは原作本から引用している。
信頼していた司祭の棄教
物語は、日本から遠く離れたポルトガルのイエズス会から始まる。そこで、若き司祭であるロドリゴとガルペは、かつての師で日本へ宣教に赴いたフェレイラが迫害の末に棄教し、日本人として暮らしているという話を伝え聞いた。この事実を信じられないロドリゴはガルペを説得し、真実を求めて日本への渡来を決断する。その途中で立ち寄った澳門(マカオ)で、キリスト教徒とされるキチジローと出会う。キチジローの粗暴な振る舞いにロドリゴとガルペは彼の信仰心に疑念を持つが、キチジローに”導かれ”、日本に神の御姿を求めて渡航する。
遠い地でも成り立つ信仰の普遍性は神の存在に近づいていくような期待感を与えていた。
若き司祭ロドリゴの受難
ところが、日本に着いたロドリゴとガルペを待っていたのは、迫害ではなく熱心な日本人信徒たちの集団だった。ここでロドリゴたちは、遠い日本の地にも確かに神が存在することを確信した。
しかし、為政者である長崎奉行、井上筑後守の手の者に次々に信徒たちが捕らえられ、棄教の証としてイエス・キリストを印された鉄板を踏むように強要される。踏み絵を拒んだモキチとイチゾウは海辺で十字架に括りつけられ、冷たい海水を浴びながら体力を失い、数日のうちに死んでいく。
ロドリゴは彼らの死を無駄にしないように、彼らの死に報いるべく、より一層イエス・キリストの存在を自分のうちに求めていく。
誰のために死ぬのか?
そんなロドリゴの篤い信仰心とは裏腹に、信徒たちに降りかかる無慈悲な拷問の末に次々と信徒たちが命を落としていく。にもかかわらず、司祭であるロドリゴは彼らの苦痛を受難し、彼らの祈りが神に届いているのか。実直に司祭として役割を果たそうとする。
しかし、そのような事態に追い討ちをかけるように、平戸へ赴いたガルペが捕らえられてしまう。信徒とともに命を落とす瞬間を目の当たりにする。ガルペの死は彼の本懐なのか。ロドリゴの心にはもはや、受難という定義が土台からぐらついていた。