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変わらない思想としての『シュガー・ラッシュ:オンライン』 ─ ディズニー的想像力と科学の相性

シュガー・ラッシュ:オンライン
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この記事は、2018年12月25日掲載の記事「『シュガー・ラッシュ:オンライン』は本当に現在のインターネット世界を描いていたか ─ ミレニアル世代の視点から」と対をなす内容である。同記事を批判する意図はない。大前提として、同記事そのものはディズニーという会社が抱えている固定観念、前時代性を的確に批評していた。インターネットに慣れ親しんでいる人間の大半は、『シュガー・ラッシュ:オンライン』(2018)に似たような違和感を抱くだろう。

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ただし、たった2個だけ言わせてほしい。まず、ディズニーが広義での「科学」を描けない映画会社なのは1923年、ウォルト・ディズニーが「ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ」を設立した瞬間から一貫して変わっていないということ。次に、苦手分野をクリアしたとして、果たしてディズニーの生み出すアニメーションはなお、魅力的でいられるのかということだ。

この記事には、映画『シュガー・ラッシュ:オンライン』のネタバレ内容が含まれています。また便宜上、ウォルト・ディズニー・カンパニーの映画部門、パーク&リゾート部門、ネットワーク関連部門などをすべて「ディズニー」と総称しています。

『トロン』セルフパロディとしての『シュガー・ラッシュ:オンライン』

『シュガー・ラッシュ:オンライン』を理解するうえで、押さえておくべき作品が『トロン』(1982)である。コンピュータのプログラムに取り込まれてしまった主人公たちの大冒険を描く『トロン』は、世界初となる映画全編でのCG使用が話題となった。『シュガー・ラッシュ:オンライン』の前半部分でも、ラルフとヴァネロペが『トロン』のアーケードゲームで遊ぶ描写がある。件の記事でツッコまれていた「電話回線の中をキャラクターが移動していくという古代的な手法」も、『トロン』の引用だ。制作者の意図としては、科学的な整合性を無視して『トロン』にオマージュを捧げているともいえる。いや、自社の作品なのだからセルフパロディというべきか。しかし、そもそもどうして大昔のSF映画を楽しいアニメ作品で引用しなければいけなかったのか?それは、『トロン』がディズニーにとって特別な映画だったからである。

『トロン』はジャン・ジロー・メビウス、シド・ミードといった名だたるアーティストを招聘し、「コンピュータ・プログラム世界を擬人化する」挑戦を、『シュガー・ラッシュ:オンライン』に先駆けて行った。制作スタッフにはティム・バートンも参加しており、世界的な天才クリエイターたちが集結した一本でもある。だが、彼らの才能を映像化できるほどの技術力は、当時のディズニーさえ持ち合わせてはいなかった。その結果、『トロン』のCGは、過去の特撮作品よりもはるかに雑で貧乏臭くなってしまったのだ。

それでも、『トロン』は先鋭的で野心に満ちた映画だった。2010年、ディズニーは28年ぶりの続編として『トロン・レガシー』を公開した。ディズニーからすれば、失敗作のレッテルを貼られた『トロン』の名誉を回復させたかったのだろう。しかし、ここに誤算があった。最新のCGと音楽、SF知識を動員して制作された『トロン:レガシー』はまったく面白くなかったのである。後述するが、ディズニーという会社は未来的なビジョンを作品に落とし込むことが致命的に苦手だ。『トロン』にあった試行錯誤の跡がきれいに整理された結果、『トロン:レガシー』は人間臭さのない、金だけかかったよくある超大作に落ち着いてしまった。

このままでは汚名返上できない。技術的には金字塔であるはずの映画がどうして、ここまで不当な扱いを受けなければいけないのか。かくして、ディズニーによる『トロン』復活プロジェクトは2018年まで持ち越しとなった。『トロン』と同じく、古びたゲームセンターを舞台にした『シュガー・ラッシュ:オンライン』で、ディズニーはようやく現代の観客に『トロン』の真価を問うてもらうことができたのである。

『暗黒ディズニー入門』から読み解くディズニーの原動力

『トロン』にここまで執着する姿勢からは、ディズニーの原動力が何なのかが見てとれる。ある一冊の書籍を参照しよう。高橋ヨシキ氏による『暗黒ディズニー入門』(2017/コアマガジン)だ。高橋氏は本書の中で、ディズニーは「魔術への信頼」を抱いている会社だと説く。ここで、高橋氏の定義するディズニーの魔術とは「幻想の現実化」だ。本書内で説明されているディズニーランドのコンセプトなどは最たる例である。1955年、アメリカで最初のディズニーランドがオープンした当時、遊園地といえば大人のデートスポットを意味した。名物のライド(乗り物)とは、暗闇でカップルがいちゃつくためのアトラクションだった。圧倒的な資金力と技術力により、穢れた遊園地を「幻想の中の平和な楽園」に変えてしまったのがディズニーなのだ。

歴史を塗り替え、過去の過ちすらなかったことにしてしまう。そんなことが本当にできるのか。少なくとも、「できる」と信じているのがディズニーなのだろう。だからこそ、『トロン』をはじめとする過去の失敗作品は、ディズニーのフィルモグラフィーにおいて美しい歴史として再生される。ちなみに、『シュガー・ラッシュ:オンライン』共同監督の1人、リッチ・ムーアがこうした「過去の再生」に関わったのは初めてではない。これも『暗黒ディズニー入門』からの指摘だが、ムーアがやはり共同監督を務めた『ズートピア』(2016)は、ディズニー過去作『南部の唄』(1946)との類似点がある。『南部の唄』は人種差別のひどかった時代に、黒人の老人が白人の裕福な子供におとぎ話を聞かせるという、どうにも違和感を禁じえない物語だ。このおとぎ話に登場するキャラクターが『ズートピア』と同じ「ブレア・ラビット(ウサギ)」と「ブレア・フォックス(キツネ)」なのである。人種差別的な描写に満ちた『南部の唄』は、自由と平等を謳った『ズートピア』として生まれ変わったといえよう。

SFはとことん苦手なディズニー映画

高橋氏が主張するように、ディズニーが過去を美化する技量に長けているのだとすれば、逆に「SF」はもっとも相性が悪いジャンルである。アニメーション映画として、ディズニー初の本格的なSF作品となった『トレジャー・プラネット』(2002)や、『ルイスと未来泥棒』(2007)は次々に商業的失敗作となった。人によっては、あまり印象に残らない『アトランティス 失われた帝国』(2001)もSFジャンルとなるだろう。一応は電子の世界を舞台にしている『シュガー・ラッシュ』(2012)にせよ、あくまで80~90年代のレトロなアーケードゲームがモチーフである。『ベイマックス』(2014)でようやくSF作品としてのヒットを生み出したが、原作はディズニーが買収したマーベル・エンタテインメントから発売されたコミックだった。自社に足りない部分を補うのがM&Aの基本、ということである。MCU作品や『スター・ウォーズ』新シリーズを配給するようになったのも、自社の弱点を自覚しているゆえだろう。

実写作品『トゥモローランド』(2015)では、科学があっさり「未来をあきらめない心」といった抽象的な感情に影響されてしまう。そう、『シュガー・ラッシュ:オンライン』にも見られるユルい設定は、今に始まったことでもないのだ。「幻想を現実化したいと願う気持ち=想像力」を根幹としているディズニーにとって、科学とはほとんど自らのアンチテーゼだからである。そして、世界でも最先端の映像テクノロジーを有しているスタジオが、そもそも科学を信仰していないという矛盾は、ディズニー映画の歪さへとつながっていく。子会社のピクサーが、『Mr.インクレディブル』(2004)、『ウォーリー』(2008)といった正統派のSF作品で何回も傑作を残しているのとは対照的だ。

これは余談だが、『シュガー・ラッシュ:オンライン』をはじめとして、ディズニー映画に出てくる未来的な巨大都市のイメージは、毎回ほぼ同じである。いずれもディズニーランド内のアトラクション、トゥモローランドにそっくりだ。当然だろう。あるべき未来像を自ら高らかに宣言してしまったディズニーが、他の形で未来など描けるはずもない。

『シュガー・ラッシュ:オンライン』の一部に出てくる科学的設定の曖昧さ、ネットリテラシーの拙さは、以上のような理由による。そもそも未来への想像力に限界があり、美しい過去に希望を見出しているディズニーにとって、「インターネット」とは根底で通じ合えない概念なのだ。また、意図的に『トロン』のような過去作品の演出を使い回したり、ところどころでネットユーザーに対して批判的な眼差しが含まれたりする理由も分かっていただけたと思う。終盤なんて、オンラインゲームを舞台にしているのに『キングコング』(1933)のパロディになってるし。

偏りのないディズニーはディズニーなのか?

では、最初に提示した質問に戻ろう。こうしたディズニーらしい偏りが失われたとき、果たして我々は今までのようにディズニー映画を楽しめるのだろうか?あるいは、ディズニーランドやディズニーシーを満喫できるのだろうか?

これらの問いかけは、すべての優れたクリエイターに対しても適応できるのかもしれない。宮崎駿から過剰な少女崇拝や左翼思想が失われていたとしたら、彼は世界を代表するアニメーション監督になっていたのか?暴力描写のまったくないスピルバーグなら?メル・ギブソンが聖人君子なら『アポカリプト』(2006)や『ハクソー・リッジ』(2016)のようにエクストリームな傑作は生み出されたのか?

『シュガー・ラッシュ:オンライン』はディズニーの限界をはっきりと示している。だが、同時に、ディズニーの揺るがない核も堂々と見せつけてくれる。『シュガー・ラッシュ』も『シュガー・ラッシュ:オンライン』も、原題にはラルフの名が刻まれているのが何よりの証拠だ。(それぞれ『WRECK-IT RALPH』『RALPH BREAKS THE INTERNET』)ゲームやインターネットの世界を破壊し、大迷惑をかけ、それでもケロリとヴァネロペの元に舞い戻ってくる男、ラルフ。彼にはヴァネロペの邪魔をしている罪悪感はあっても、ゲーマーやネットユーザーへの配慮はない。なぜならディズニーにとって、すでに日常化した科学やインターネットなど潜在的にはどうでもいいのだから。ディズニーの思想では、世界を動かすのはあくまで人の心であるべきである。だとすれば、感情を暴走させたインターネットの破壊者、ラルフこそディズニー映画ではヒーローに相応しいのだ。

『シュガー・ラッシュ:オンライン』は一部において、「現在のインターネット世界を描いて」いない作品である。そして、ディズニーは、100年後も200年後も、その時点での最新技術を思い入れとともに描こうとはしないだろう。良いか悪いかはさておき、この信念によってディズニーはずっとディズニーでいられるのである。筆者は『シュガー・ラッシュ:オンライン』を同時代性がないとするのではなく、軸がブレていないのだと評したい。矛盾の塊のまま、トレンドさえも突き抜けてしまうパワー。いつ悪に裏返ってもおかしくない圧倒的なエゴイズム(それはラルフの姿そのものだ!)を見守るスリルこそ、ディズニーのクリエイションを追い続ける醍醐味だ。

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Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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