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【解説レビュー】世界はイーストウッドに『運び屋』を「撮らせてしまった」 ─ 『グラン・トリノ』10年ぶりの監督・主演映画を分析する

運び屋
©2018 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

クリント・イーストウッド監督、『グラン・トリノ』(2008)が公開されたときの熱狂はすさまじかった。現代最高の映画監督が最高傑作級の映画を撮ったから、というだけではない。80年近くに渡るイーストウッド自身の人生、映画人としてのキャリア、死生観を詰め込んだ内容に、ただただ観客は圧倒されたのである。『グラン・トリノ』はイーストウッドの遺言とも解釈され、興行的にも批評的にも大反響を呼んだ。まるで、イーストウッドの最後の言葉に耳を傾けようとするかのように。

しかし、誰もが知っているようにイーストウッドはその後も映画を撮り続けたし、『人生の特等席』(2012)では再び映画に主演している。そして、『運び屋』(2018)で10年ぶりにイーストウッドは監督・主演の兼任を果たした。とりあえず、本作が超絶的な傑作であることはさておき、今の時代にイーストウッドはどんな物語を描いたのだろう?

この記事には、『運び屋』および『グラン・トリノ』のネタバレが含まれています。

アールとウォルトの共通点

『運び屋』の主人公、アール・ストーン(イーストウッド)は90歳近い老人である。彼はメキシコ系の従業員に囲まれ、園芸農場の経営を生き甲斐にしてきた。ボロボロのトラックでアメリカ中の品評会を駆けめぐり、自慢のデイリリー(ユリの一種)を誇るのが至福の時間である。業界内でアールの評価は高く、品評会ではみんながチヤホヤしてくれる。

運び屋
©2018 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

しかし、仕事を優先して生きてきたアールは、元妻と長女との関係が冷え切っていた。唯一味方してくれるのは孫娘だけ。ちなみに、長女のアイリスを演じているのはイーストウッドの娘、アリソン・イーストウッドである。観客は、アールとイーストウッドの人生を重ね合わせずにいられない。

おそらく、家族に拒絶されるほどに、アールの情熱は仕事と社交に向けられていったのだろう。やがて自宅と農場が差し押さえられたアールは、出来心で「運び屋」業に手を染める。組織の命令で麻薬を車に積み、目的地へと届けるのだ。警察も老人が乗った車なら怪しむことはない。運び屋で稼いだ大金により、自宅も農場も取り戻せた。費用を出すことで、孫娘の結婚パーティーにも招待してもらえた。友人のバーも救えてみんなが感謝してくれる。アールの孤独は金で埋まっていく。

こうした設定は『グラン・トリノ』を踏襲していると見ていい。『グラン・トリノ』は典型的な保守層のアメリカ白人男性、ウォルト・コワルスキー(イーストウッド)の物語だった。朝鮮戦争の帰還兵であり、家族と疎遠になっているウォルトは人生の黄昏において、近所に住むモン族の少年、タオ(ビー・ヴァン)と交流を深めるようになる。タオと過ごすことでウォルトは異人種への偏見を払拭し、自分が重ねてきた罪を償うための方法を見つける。タイトルにあるグラン・トリノはウォルトの愛車であり、作中では古き良きアメリカのシンボルとして描かれていた。2作品とも、車が重要な役割を果たしている映画でもある。

コンプライアンス問題を象徴する描写の数々

ただし、2作品はすべての設定が似通っているわけではない。『グラン・トリノ』が死に場所を探す男の映画だったのに対し、『運び屋』は切実に居場所を求める男の映画である。それに、アールを見捨てたのは家族だけではなかった。時代の流れも残酷に、アールを切り離しにかかる。誰もが携帯電話で他人とつながり、インターネットで生活の知恵を探す時代に、アールのようなアナログな人間はついていけない。

また、冒頭からアールは友人たちと下品なスラングを交し合う。それが、彼らにとっての親しみの表現だったからだ。アールは同じ調子で、車のパンクで困っている黒人一家に「ニグロ」と呼びかけてしまう。戸惑う一家。そして、「ニグロじゃない。黒人だ」と訂正を求める。アールはピンとこない。バイカー集団に「ぼうや」と声をかけたときも、「あたしたちはダイクスよ」と返されてしまった。ダイクスとは女性の同性愛者に向けられた蔑称だが、自分で名乗るときは偏見への反発心を示しもする。髪型や服装が男性的だったのでアールには性別がわからなかったのだ。世界は、めまぐるしく変わっていく。ユリにしか興味のなかったアールが気づく由もないままに。

そういえば、『グラン・トリノ』には、ウォルトがタオを大人の男にしようと、下町の言葉づかいを仕込むシーンがある。公開当時は劇場内が大爆笑していたものの、2019年現在のコンプライアンスでは、偏向や差別と思われるリスクもなくはない。『運び屋』は、そんなシーンが成立しにくくなった世の中を映している。(本作の時代設定が2005年で『グラン・トリノ』公開前なのは、この際置いておこう。2018年に本作が米公開されたことのほうが重要だ)とはいえ、90歳に手が届こうとしているアール=イーストウッドが劇的に時代へと順応することなど難しい。だから、彼らは時代に取り残されるしかない。

運び屋
©2018 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

ステレオタイプの空間に幸せを求めるアール

アールが救った友人のバーでは定期的に、退役軍人会の懇親会が行われていた。時代遅れのポルカに合わせて踊る男女たち。正直、かなり「お寒い」空間である。それでも、アールにとっては大切な居場所のひとつだ。『ブロンコ・ビリー』(1980)の一座のように、『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)の撮影現場のように、ひとつの場所やモノに執着するのはイーストウッド監督・主演映画の特徴である。もちろん、『グラン・トリノ』もその流れに含まれるだろう。しかし、これほどまでに物悲しく、いたたまれないムードで執着心が描かれたのはイーストウッド映画でも初めてだ。

ポルカのシーンをはじめとして、『運び屋』では、ある集団に対するステレオタイプな描写が数多く登場する。もっとも象徴的なのは、アールのボスにあたるメキシコの麻薬王、レイトンの豪邸だろう。彼は射撃とパーティーをこよなく愛し、傍らにはいつも水着の美女をはべらせている。絵に描いたような「悪の親玉」だ。本作の基になった事件でメキシコの麻薬カルテルが元締めだったことを考慮しても、記号的で大仰な印象は拭えない。それでも、アールはすんなりとレイトンのパーティーになじみ、快楽を享受する。

『運び屋』では、時代についていけないアールがステレオタイプな環境にいるときに限って幸せを感じるという構図が繰り返し登場する。そこには、現代的なリベラリズムに共感できない代わりに、信じてきたナショナリズムが形骸化しているとも自覚している古くからの保守層の姿があるのだ。

そういった構造を踏まえると、終盤でアールが下した決断も手放しでは感動できなくなる。アールの行動は「本当に大切なものはお金ではない。家族の愛だ」という作品のテーマを観客に示す。ただ、こうしたテーマすらも、ステレオタイプの域を出ないと指摘できるのではないか。




『運び屋』が見せる価値観の「後退」

本作の脚本は『グラン・トリノ』と同じく、ニック・シェンクが担当した。だから、『運び屋』には意図的に『グラン・トリノ』と類似した設定が盛り込まれたと推測できる。しかし、メッセージの革新性を取り上げるなら、『運び屋』は『グラン・トリノ』よりも後退している。ポリイティカルな部分で『運び屋』が『グラン・トリノ』よりも現代的なのは明らかなのに、主要登場人物たちの思考や行動はかえって前時代的になっているのだ。

たとえば『グラン・トリノ』で、ウォルトは異人種の一家と打ち解けて新しい自分になった。ウォルトの姿が共感を呼び、『グラン・トリノ』は白人保守層の「贖罪」の映画として大ヒットしたのである。それに比べると、『運び屋』のアールが異人種のコミュニティから家族のもとに戻っていくのは、感動的であっても保守的な帰結といわざるをえない。無論、保守的な物語が無条件で悪いのではない。同じ監督・脚本によって作られた2本の映画が、10年という間隔を経たにもかかわらず価値観を更新できなかった事実は、深刻なアメリカの病巣を体現していると言いたいのである。

2作品の類似性に目を向けることで、より思想の後退は際立っていく。強引に『グラン・トリノ』のウォルトとタオ少年の絆を『運び屋』にあてはめるなら、アールとフリオ(イグナシオ・セリッチオ)の関係性が対応しているのだろう。しかし、フリオは組織のボスが変わると、奔放なアールを庇いきれなくなる。あっさり他の構成員にアールを引渡し、物語から退出する。ここでも、『グラン・トリノ』にあった「血縁以外のつながり」「自分を変える勇気」が切り捨てられている。

イーストウッドの希望が忘れ去られた10年

言うまでもなく、こうした「後退」はイーストウッドの創作面の衰えによるものではない。むしろ、イーストウッドが時代の空気を敏感に察知できるだけの感性を今でも保っている証明だ。アメリカ映画の象徴であるイーストウッドが後退することを選んだなら、それはアメリカがこの10年で後退していることを意味する。

そう思って、2019年のアメリカを見てみよう。トランプ大統領は本気でメキシコとの国境沿いに壁を作るつもりでいる。人種差別問題はなくなるばかりか、ますます根深くなっているとの見方も可能だ。保守層とリベラル層は互いの揚げ足取りに奔走した挙句、内部分裂してしまっている。政治家は主義や理念ではなく、利益を同じくする者同士の集団にすぎない。いや、これらはアメリカというより世界の問題というべきか。要するに、10年前、イーストウッドが『グラン・トリノ』に込めた希望は叶わないまま忘れ去られようとしている。

イーストウッドはこうした状況を無視できるほど楽観的な映画人ではなかった。もっといえば、彼はピーター・ファレリーのように生真面目でも、スパイク・リーのように熱血でもない。時代の空気をそのまま受け止め、一切の美化も露悪も加えず、作品に淡々と反映させるのがイーストウッドのやり方だ。それも、あくまで1本の映画娯楽として。

結果的に、2018年の空気をダイレクトにまとった『運び屋』は『グラン・トリノ』の先ではなく、後ろにまで戻って希望を探す物語にならざるをえなかった。

運び屋
©2018 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

無力な世界が本作を「撮らせてしまった」

ここで、2作品のラストシ-ンを比べてみよう。『グラン・トリノ』は、成長したタオが水平線をバックに、ウォルトから譲り受けたグラン・トリノを走らせて終わる。一方、『運び屋』は、塀に囲まれた刑務所でアールがユリを育てているシーンを観客が俯瞰して終わる。いずれも希望についてのシーンであるのは間違いない。しかし、『グラン・トリノ』の解放的な余韻に対して、閉塞的な場所でわずかな生き甲斐を愛でていく『運び屋』のラストショットには、ある種の諦念を感じてしまう。世界を変えられない以上、我々は分断された場所で、目の前にある小さな幸せを守り通すしかないのだろうか。『グラン・トリノ』のように、まったく異なる出自と歴史を持った人間に対し、それでも「分かり合えるかもしれない」と期待することは無駄なのだろうか。

運び屋
©2018 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

この諸行無常。作り手の達観。『運び屋』が今年を代表する圧倒的な大傑作であるからといって、呑気に称えている場合ではない。10年後、イーストウッドが自らの監督作で再びスクリーンに現れるときに備え、我々には取り組むべき問題が山積みである。世界はイーストウッドに『運び屋』を「撮らせてしまった」無力さについて、真剣に向き合うべきなのだ。

映画『運び屋』は2019年3月8日(金)より全国公開中

『運び屋』公式サイト:http://www.hakobiyamovie.jp

Writer

石塚 就一
石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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