【インタビュー】「僕はスーパーヒーローを信じない」 ─ リュック・ベッソンは『ヴァレリアン』で何を伝えたかったのか

「スーパーヒーローが何処からともなく現れるなんて、僕は信じられない。」──リュック・ベッソン監督はTHE RIVERのインタビューに語った。
2018年3月、都内某所。映画『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』巨匠リュック・ベッソンへのインタビューとあり、取材陣はやや緊張した面持ちで集まった。ベッソン監督は「世界に一着しかないんだ。あげないよ」と自慢げな『ヴァレリアン』バンド・デシネのアートTシャツにデニム、ジャケット姿で登場。気難しく繊細というイメージだったが、実際にはむしろ陽気で大らかな印象だ。この日も取材直前、自らスマホで自撮りビデオを撮影し、自身のSNSアカウントにアップしていた(我々取材陣もチラリと登場する)。
Valerian in Japan!
On march 30th!
So happy to be back here in Tokyo.
Thank you for your kindness and support 🙏❤️#caradelevingne #danedehaan #badgirlriri #ethanhawke #sashaluss #aymelinevalade #paulinehouarau #cliveowen #herbiehancock #kriswu #film #movie #syfy #japan #tokyo pic.twitter.com/XSzHpDGbsF— Luc Besson (@lucbesson) 2018年3月14日
「人種間に壁を作るなんて、古い」
示し合わせたわけではないが、筆者を含めた数名の取材陣はスーツにネクタイ姿だった。我々を見た監督の「金融機関の方たちみたいですね。どうしたんですか」という笑いと共に、インタビューは始まった。
「僕が作りたかったのは、誰もが共生する映画。外国との間に壁を作らない世界です。」
なぜ海外記者が『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』を「ド頭から傑作」と評すのか。今作のオープニングは、平和と結束のメッセージを込めて宇宙に創られた”アルファ宇宙ステーション”の映像から始まる。このステーションは、長い年月をかけて銀河中の様々な種族がそれぞれのステーションをドッキングしていき、超巨大な”千の惑星の都市”となる。そこでは、容姿も文化も風習も異なる幾千もの生物らが共生している。『ヴァレリアン』の物語はこうした理想郷の上にあることを、この映画は冒頭5分で感動的に提示するのだ。監督はこう語る。
「自分とは違う人との出会いって、自分を豊かにしてくれると思うんです。例えば僕が日本の皆さんとお会いする際に、寿司や着物といった日本のものを何も知らないとしますね。でも、フランス人の僕がフランスパンとか、カマンベールチーズとか、クロワッサンとか(笑)、それからフランス的なパフューム、ファッションを持ち寄っても良いわけです。つまり、お互いの持ち物を同じテーブルの上に並べれば、共に豊かになれる。『ヴァレリアン』ではこのテーマを描いているんです。映画の冒頭でも、色々なエイリアンが握手していますよね。」

監督が語る『ヴァレリアン』の冒頭映像。
『ヴァレリアン』オープニングでは、デヴィッド・ボウイの「Space Oddity」に合わせて、1975年のアポロ号カプセルとソ連のソユーズとのドッキングから何百年もかけて、全宇宙の種族と別け隔てなく繋がっていく様子をドラマチックに描く。始めは国籍の異なる人間同士で握手を交わすが、やがて御辞儀をもって挨拶する人種が現れる。2150年になると、ついにエイリアンとも手を取り合うのだ(ステーションで待つ人類側がちょっと緊張しているのが面白い)。やがてステーションに合流するエイリアンは、人型ですらなくなっていく。たとえばマルタプライ(Marutapurai)属の手は、頭足類のようにヌメヌメしているが、それでも人類は手を取り合うことができる。
「そうそう、握手すると手がベチョベチョになってしまうエイリアンもいるけど、受け入れちゃえばいい。オッケー、ウェルカムって(笑)。これを見せてあげることがすごく重要なのです。だって、これこそが未来でしょう。壁を作るなんて過去。バカバカしい話ですよ。」

ひとつの場面内に、無数のエイリアンたちが当たり前のように一緒に暮らしている…。かつてSF映画といえば、そんな未来や異世界を描いていた。SF映画がディストピア的価値観に支配された現在、『ヴァレリアン』は再び、王道のユートピア的価値観を取り戻す。監督は「それこそが美徳だと思います」と同調し、具体的な考えを明かす。
「例えば日本人の男の子が、スペイン人の女の子と出会って、恋に落ちることもある。凄いことだと思いませんか。それぞれの要素を持ち寄るんですよ。僕がその間に生まれる子供になりたい(笑)。二つの文化が混じり合うんです。こんなに美しいことはない。それなのに私たちは何世紀もの間、お互いに殺し合いをやってたんですよね。だから『ヴァレリアン』では、我々は共生できるんだということを大きなメッセージとして伝えたい。共に生きることとは、喜びなんだと。」

監督は、更に噛み砕いたエピソードでこのコンセプトを紹介してくれた。
「僕の娘は今13歳なんだけど、彼女が10歳だった時に、お寿司屋さんに連れて行ったことがあったんです。お寿司って、ちっちゃい子にはちょっと難しいじゃないですか。冷たいし、生魚だし。”食べてみる?”って勧めてみたら、”ヤダヤダ、要らない”って言うんですね。”いいから食べてみなさい”と言うと、嫌々ながら食べたんです。そしたら”…うん、まぁ、悪くないかも”って。今じゃ娘はお寿司にドハマリしてますからね。僕はこういう事が起こるのが好きなんですよ。」
「スーパーヒーロー映画は、プロパガンダ映画だ」
それでは、何故最近のSF映画はかくもディストピア的なのだろうか。退廃した近未来、崩壊した倫理観…。べつにそういう映画を受け付けないわけではないが、考えを尋ねられた監督はこう答える。そこには、世界中を席巻するスーパーヒーロー映画に対する痛烈な思いも込められていた。
「荒廃した未来をスーパーヒーローが救う、という話は受け入れられやすい。でも、スーパーヒーローに救われた事実なんて、これまでの人類史上でありましたか?ファシズムや戦争から、ヒーローは我々を救いましたか?ガンジーはタイツを着てマントを付けていましたっけ?ビルマの為に戦ったアウンサンスーチーや、南アフリカで戦ったネルソン・マンデラも、戦場のマザー・テレサも、マントを付けて空を飛んでいましたっけ?彼らは世界を救いましたが、みな普通の人間ですよね。スーパーヒーローが何処からともなく現れるなんて、僕は信じられない。」
勧善懲悪の物語を描く時、必然的に特定の誰かを「悪」に仕立てる必要が生じる。そんな時に凶悪化されやすいのがエイリアンだ。これまでのSF映画やスーパーヒーロー映画で、エイリアンは全人類にとって共通の敵として描かれてきた。ベッソン監督は『ヴァレリアン』で、そのエイリアンとさえ共に暮らせる世界を描いている。監督にとって、エイリアンを敵と見なすスーパーヒーロー映画の構造には致命的な問題があった。
「スーパーヒーロー映画をよく観てみると、だいたいエイリアンがヴィラン(悪役)ですよね。つまり、外国人ですよ。外国人から世界を守る、その救世主はいつもアメリカ人として描かれています。だから(スーパーヒーロー映画/SF映画は)アメリカ人がいかに優れているかを示す、プロパガンダ映画のように思います。”ご心配なく、我々アメリカ人が異国の脅威から助けてやるぞ”、みたいなね。余計なお世話ですよ(笑)。」

この日ベッソン監督は、取材時間が終わる頃に「One more question(もう1問やろう)」と自ら延長を申し出るほどに饒舌だった。
監督は『スター・ウォーズ/新たなる希望』(1978)で、(当時はどう考えても脇役として使われたであろう)ドロイドであるC-3POとR2-D2が中心となって始まるオープニングや、黒澤明『影武者』(1980)で、武田信玄を約4分間長回しで捉えたオープニングを観た時、「制約にとらわれず、やりたいことをやっていいんだ」と強い影響を受けたという。では、『ヴァレリアン』は若い観客にどんな影響を与えるか。監督は笑って答える。
「どうでしょう。わからないですね。この映画を観た12歳くらいの少年少女が大人になったときに、”10年前に『ヴァレリアン』っていう映画がこんな扉を開いたんだよね”と教えてくれるまで、待ちますか。」

映画『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』は、2018年3月30日(金)全国ロードショー。きっとあなたも、刺激を受けるはずだ。
『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』公式サイト:http://www.valerian.jp/
(取材・文:中谷 直登)