【徹底特集】どこよりも早い『シン・ゴジラ』論 ─ 空前の極上エンタメはいかにして歴史を更新したか
はじめに
とんでもない映画である。『シン・ゴジラ』のことだ。
公開初日の朝に映画館に駆け込んだところ、すぐに「最高」「もっと観たい」という心の声がダダ漏れし、一番くじを求めてうつろな目で街中をさまよい歩くようになってしまった。筆者は作品について語る言葉を持たず、もともと抱えていた感想は別の誰かがすぐに書いてくれた。
しかし、まだ書かれていないことがあるような気がした。「ポスト3.11」や「リアルシミュレーション」、またエヴァンゲリオンや特撮映画の文脈で書かれたレビューはあるが、『シン・ゴジラ』がひたすら純粋な娯楽映画であり、それがいかに実現されていて、どう実を結んでいるかはほとんど言葉にされていないのではないか。
この記事は『シン・ゴジラ』をすでに観た方はもちろんのこと、そもそもまったく興味のない方や、DVD・Blu-rayで観ればいいと思っている方、その他すぐに観るつもりのない方にも向けて書かれている。
なぜなら『シン・ゴジラ』とは“今すぐ観てこそ傑作”と呼べる映画なのであり、同時にこれから先も語り継がれるべき極上のエンターテイメントだからだ。一人でも多くの人に劇場で観ていただければと切に願っている。
【注意】
この記事には『シン・ゴジラ』のネタバレが含まれています。ただし作品を未見の方にもお読みいただけるよう、最大限に配慮したうえで執筆いたしました。
“とにかく気持ちいい”映画
純粋なエンターテイメントであること。怪獣でも政治でもましてエヴァンゲリオンでもなく、『シン・ゴジラ』はただひたすらにエンターテイメントであろうとする映画だ。
たとえばその意志は、ハイテンションかつ凄まじい緊張感で観客を2時間引っ張る豪腕ぶりによく表れている。ファースト・カットが映し出された瞬間から『シン・ゴジラ』の物語ははじまっており、なんのプロローグもなく観客は東京湾の海上に放り出されるのだ。そこからは事件のつるべ打ちで、観客が固唾を飲んで見守るうちに物語はぐいぐい進んでいく。息つく間もなくエンドクレジットがやってくるだろう。
観客をなかば強引に導く仕掛けのひとつは、作品の“リズム”にある。
『シン・ゴジラ』の大きな特徴が会議シーンにあることは、すでにあちこちで書かれている通りだ。主人公の矢口蘭堂(長谷川博己)をはじめ、登場人物のほとんどが膨大な量のセリフをおそろしい早口でまくしたてる。「巨大不明生物が東京に上陸している」という緊急事態で、政治家や官僚たちが話す言葉はただでさえ難解なうえ、専門用語や固有名詞もポンポン飛び交うのだ。そのくせ場面は猛スピードで展開するので、初見の観客がすべてのセリフを聞き取ることはほとんど不可能である。
もっとも、ポイントは「セリフを聞き取れなくてもまったく問題ない」ことだ。大切なのはセリフの速度や密度によって映画全体のリズムが繊細にコントロールされていることであって、そもそもキーワードとなる言葉はきちんと聴こえてくるし映像でも語られる。それに内容がすべてわからなくとも、高速で交わされるセリフはそれ自体が小気味よい。内容を理解すると面白さが深まるのはもちろんだが、“耳で聞いて楽しい・面白い”という体験こそ『シン・ゴジラ』における会議シーンの肝だといえよう。

もちろん、映画のリズムはセリフだけで構築されているわけではない。画面に注意すると、これまでの庵野秀明作品と同様、きわめて速いカット割りを中心とした編集が心がけられているのがわかる。それでいて、ほんの数秒(あるいはそれ以下)のカットにも情報は詰め込まれているのだ。
「すべてが理解できなくてもよい」とはいうものの、密度の高い情報をハイスピードで繰り出せば、観客は目と耳を積極的に使わざるをえなくなる。『シン・ゴジラ』はその内容を丁寧に説明するのではなく、むしろ観客を作品に能動的に関わらせることで劇世界に“巻き込んで”いく映画だ。全編を貫くハイテンションと緊張感もそのために設計されている。
もちろん『シン・ゴジラ』は怪獣映画であり、視覚的なサービスも存分に用意されている。たとえば上陸したゴジラが街を派手に破壊する様子、人々がゴジラを迎え撃つ様子は間違いなく最大の見どころだ。ハリウッド映画に比べるとCG・VFXで劣る部分はあるものの、インパクトのある表現や気持ちのいい画にこだわり抜かれた描写には息を呑む。