あえて今こそベン・アフレック版『デアデビル』の話をしよう

映画『デアデビル』のここがスゴイ!
キャスト・製作陣が完全に今に通じている
今になって『デアデビル』(2003)を観返すと、いろいろな意味で現在のスーパーヒーロー映画の基盤になっているようなところが多い。まずはキャスティングだ。主人公デアデビル/マット・マードックを演じたベン・アフレックといえば、言わずもがな後のバットマン俳優である。デアデビルとバットマンの口出しマスクはデザインが似ているところもあって、ビジュアル的にもバットマン役の先駆けのように見える。
そしてマットの同僚弁護士であるフォギー・ネルソン(ドラマ版にも登場するキャラクター)を演じているのは……なんとジョン・ファヴローだ!ファヴローといえばMCUではハッピー役としてお馴染み。『アイアンマン』シリーズでトニー・スタークに仕えていたのとほぼ同じように、『デアデビル』ではマードックのアシスタント的な役割で右往左往している。さらに、ヴィラン役ブルズアイを『ザ・バットマン』コリン・ファレルが演じているといった注目点もある。
製作陣もガチである。共同プロデューサーに入っているのは、まだまだキャリア初期だったケヴィン・ファイギ。後にマーベル・シネマティック・ユニバースを作り上げるその人である。そして、マーベル・スタジオの設立者であり、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』でもプロデューサーとして重要な仕事を務めたアヴィ・アラッドも加わっている。
イースターエッグもバッチリ
アメコミ映画といえば、原作コミックや他作品に通じる小ネタ(イースターエッグ)がさりげなく散りばめられている点もお楽しみで、『デアデビル』もその例に漏れない。
例えば、主人公の父ジャック・マードックのボクシングの対戦相手の名前が、コミックアーティストの名を模した「ジョン・ロミータ」になっていたり、登場人物にヒントを与える研究員の名前が、やはりコミックアーティストに敬意を表した「ジャック・カービー」の名前になっていたりと(しかもそれをケヴィン・スミスが演じている)、ファンをニヤリとさせる小ネタがチラホラ。そして最も重要なことに……、スタン・リーもカメオ出演している!
早くもユニバース構想っぽいことをやっている
最近のブロックバスター映画といえば、複数の作品で世界観を共有する「ユニバース構想」がトレンドとなっており、それらは世界的成功を収めるマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)に憧れたためと言っても過言ではないだろう。ユニバース構想の大元は2008年より始動したMCUであることは間違いないのだが……、実は『デアデビル』だって、それに先駆けてユニバース構想っぽいことをやっているのである。
それが、2005年に公開された映画『エレクトラ』。これは、『デアデビル』に登場したヒロインのスピンオフ映画であり、『デアデビル』のその後の物語を別視点で描く内容なのだ。今でこそ、別のヒーローを主人公にした単独映画は当たり前となっているが、実は『デアデビル』と『エレクトラ』こそ、それらの先駆けだったのだ!
じゃあ、『エレクトラ』の出来はどうだったかって? …………。よし、次の話題に移ろう。
2000年代特有の、当時ならではあの感じ
『デアデビル』が製作・公開された2000年初頭の作品には、当時特有の、あの何とも言えない空気感があった。「ノストラダムスの大予言」や「2000年問題」に肩透かしを食いつつ、同時多発テロの悲しい憂鬱に苛まれたあの時代。新時代への憧れは、今になって見れば中途半端なCG技術の試行錯誤によって体現されていた。「スタイリッシュアクション」なんて言葉が登場し始めたのも、この時代だ。
2000年代的なスタイリッシュアクション
おそらく「スタイリッシュアクション」映画の源流となったのは、1999年の『マトリックス 』や2000年の『グリーン・デスティニー』だろう。業界に大きなインパクトを与えたこれらの作品に影響されたかのように、2000年代初頭は登場人物がロングコートをはためかせて、空中を駆けたり壁を蹴ったりしながら銃をバンバン撃ちまくって敵を倒しまくるというアクションが大流行した。クリスチャン・ベールの『リベリオン』(2002)やケイト・ベッキンセイルの『アンダーワールド』(2003)もこの頃だし、日本では『リターナー』(2002)が制作された。
映画だけじゃない。ビデオゲームの方だって『デビル・メイ・クライ』が2001年にデビューして大ブームになった。そう言えば2000年のアルバム『ブラック・アンド・ブルー』の時のバックストリート・ボーイズだって、メンバーは『マトリックス』みたいな黒いロングコートを着ていたな。
2003年公開の『デアデビル』も、このトレンドからの影響はしっかりと見られる。デアデビルはマントやローブこそなびかせないものの、華麗な壁蹴りで空中移動したり、敵の飛び道具攻撃は身体をしなやかに反らして回避したりと、すごく2000年代っぽいアクションを堪能できる。
最初の見どころになるのは、裁判で無実になった悪人に「正義の鉄槌」を下すため、デアデビルがガラの悪いナイトクラブにカチ込みに現れるシーンだ。デアデビルは武器のステッキを振り回し、側転、バク宙のアクロバットを連発。それに合わせてカメラも一緒に回転する動きは、現在のGoPro的なアクションカメラっぽいカメラワークだ。銃弾が飛んでくれば、デアデビルのレーダーセンス(音波を頼りに見る、彼ならではの視界)上では『マトリックス 』のバレットタイムのように映り、縦横無尽に飛んで回避する。
中でもコリン・ファレルが演じたブルズアイは、2000年代スタイリッシュアクション映画直系のビジュアルだ。ネオやモーフィアスみたいな黒いロングコートを、ヴァンパイアみたいに自分でバサバサさせて楽しそうにしている。
ドンマイ、ブルズアイ
ちなみにこのブルズアイ、2000年代だからギリ許された(?)珍妙なキャラ造詣が施されている。投げたものは狙ったところに必ず命中するという能力を持つこの男、なぜかスキンヘッドの額にダーツの的のような照準マークが刻まれており、そのダサさが堪らない。
おまけに、事あるごとに「我、ここに在り──」みたいな感じで両手を広げる謎のカッコつけでもある。信じられないことに、空港のセキュリティゲートを通る時でさえ人差し指を天に差して「唯我独尊──」みたいなポーズでカッコつける。さらに、口の中から金属クリップをねちっこく吐き出して、空港の職員に割とマジにドン引きまでされている。
当時は、こういうイカれたロックスターみたいなのがカッコ良いと思われたのだろうか?ブルズアイのキャラ造形ばかりは20年経つ今もわからない(ドラマ版のポインデクスターのサイコっぷりもやばかったけどね)。
2000年代的な寒色
どういうわけだか、2000年代の映像作品はマイケル・マンの映画みたいに、褪せた寒色系であることが多い気がする。例えば当時のヒット曲のミュージックビデオを観ても明らかだ。ほんのいくつか例を挙げるなら、2004年のビルボードHot 100の1位だったアッシャーの「Yeah!」とか、リンキン・パークの「Crawling」(2000)や「Numb」(2003)、ニッケルバックの「How You Remind Me」(2002)とかを観ていただければ、お分かりいただけると思う。
もちろん映画もそうだ。寒色の達人マイケル・マンはこの頃、『ALI アリ』(2001)や『コラテラル』(2004)を手掛けているが、他にも『トレーニング・デイ』(2001)、『マイノリティ・リポート』(2002)、『ボーン・アイデンティティ』(2002)、『8マイル』(2002)といった作品も、青や緑の寒色によって陰影深く描かれている。
この理由はまた別の考証が必要で、当時よく使われていたカメラや映像処理方法がこうだったとか、フィルム撮影とデジタル撮影の違いだとか、専門的な背景が分かっていれば、もっと詳しく考えられるだろう。あるいは、ちょっと陰鬱な時代の気分だとか、男性的なイメージが求められたとか、他にも考察できるところがあるかもしれない。とにかく、色彩が少し抑えられた、青や緑がかった映像を観ると、2000年代チックなノスタルジーを感じられるという方は、それなりに多いのではないだろうか。
それで『デアデビル』は、やっぱり2000年代的な寒色によってハードに描かれている。デアデビルが襲撃するナイトクラブや、戦いの舞台となる地下鉄のホームや夜の街、記者が訪れる研究室、そしてキングピンのオフィスに至るまで、ありとあらゆる空間が青白く、または緑色で描かれている。汗が滲んだ彼らの皮膚、そして真紅であるデアデビルのコスチュームでさえ、青や緑の明かりがジワリと照らす。
この2000年代的寒色は、ダークでスタイリッシュな作風とすこぶる相性がいい。夜にしか活動しないデアデビルだからこそ、青白い月明かりや、物々しい稲光はよく映えるのだ。最近の映画では珍しくなった寒色トーンで観るスーパーヒーロー物語は、今になってみるとちょっと新鮮だし、どこかザック・スナイダー味さえ感じられる。
2000年代的なハードボイルド
今となっては、スーパーヒーロー映画はたくさんのヒーローが共演したり、マルチバースという便利な設定を使って、昔のシリーズを掘り起こしたりと、どんどん派手に、豪華になっている。
でも、スーパーヒーロー黎明期の2003年に公開された『デアデビル』は、「そういえばスーパーヒーローってこうだったよな」という原始的な醍醐味を思い出させてくれる。正体を明かされる事を恐れながら、正義のために人知れず戦う、孤独なヒーローの姿だ。
『デアデビル』は、主人公マット・マードックの一人称の語りによって展開される作品なのだが、スーパーヒーロー映画でこの手法が取られている作品は意外と珍しい。ライミ版『スパイダーマン』3部作や、『キック・アス』(2010)や『デッドプール』(2016)はあるものの、『デアデビル』と同じ雰囲気でモノローグが語られる作品といえば、『ウォッチメン』(2009)や『シン・シティ』シリーズくらいである。
『デアデビル』では、フランク・ミラーのコミック紙面を思わせるような、硬派で、端的で、ぶっきらぼうながらも、詩的で、啓示的で、滲みるようなモノローグを聞くことができる。それらは、まるで真冬の風が、汚れた窓ガラスをピシ、ピシと叩くみたいに、ベン・アフレックの乾いた声で淡々と語られる。
2010年代、2020年代は、スーパーヒーローたちにとって比較的良い環境だ。彼らの世界は広く、ヒーロー仲間や理解者をたくさん見つけることができるし、チームを組んで活動することだってある。でも2000年代初頭のスーパーヒーロー映画はそうじゃなかった。デアデビルはひたすらに孤独だ。地下室のような寒そうな部屋に独りで暮らすマードックは、毎夜姿を消すために愛想を尽かされた恋人からの別れの留守電を再生しながら、ため息をつき、シャワーを浴び、戦いで抜けた歯をむしり取って捨て、鎮痛剤を飲み込み、やっとの思いでその日を終える。寝る時は棺桶のようなケースの中で液体に浸かって、まるで魔物のように眠る。なぜなら、街中のありとあらゆる音が四六時中聴こえてしまうため、聴覚を遮断する必要があるからだ。えっ?耳栓?それは野暮ってもんよ。
それから、ビルの高層階からヒーローが夜の街を見下ろすという厨二心をくすぐるカットも見ものだ。こうしたカットは最近では逆に珍しくなった気もするが、デアデビルではクールに取り入れられている。
マット・マードックはクリスチャンなので、彼の物語では教会がフィーチャーされることが多い。映画でもデアデビルは、教会の縁(へり)に腰を下ろして、守護天使の石像たちと共に、ヘッドライトとテールライトが行き交う道路を見下ろす。彼は高所から、ヘルズキッチンの街の音を聞き、そして舞うように飛び込んでいく。

それも本作、デアデビル/マット・マードックのシークレット・アイデンティティや、彼の孤立が物語の核となっている。彼は劇中のモノローグで「1人で(世の中を)変えられるか?ある時はそう信じ、ある時は絶望する(Can one man make a difference? There are days when I believe… …and others when I have lost all faith.)」と語るのだが、これは物語のテーマをよく表している。
ヒーローとしての彼の側には、メリー・ジェーンも、バッキー・バーンズも、AIアシスタントも、ロイス・レインも、アルフレッドもロビンもいない。彼と共にあるのは、孤独が支配する夜の帳(とばり)だけだ。その見せかけの静寂が、ならず者共が吹かすバイクのエンジン音や、パトカーのけたたましいサイレンにかき消された時、デアデビルは真紅のレザー・スーツの節々を軋ませて、人知れず戦いの中に自らの身を投げ入れる。何のために?正義だ。誰も通らぬ裏路地で、ヘルズキッチンの闇が父をなぶり殺したあの夜から、マット・マードックが探し求める正義のためだ。「私は約束を守り、世の中の弱者を助け、正義を追求する。たとえどんな手段を使ってでも──」これが、“恐れを知らぬ男”の、たったひとりの戦いなのだ。2003年以来、これほどまでにハードボイルドなスーパーヒーロー映画が製作された例があっただろうか?
エヴァネッセンスの主題歌
はっきり言って、『デアデビル』のダークな魅力を2割くらい引き上げてくれているのは、映画の主題歌であるエヴァネッセンス(Evanescence)の「Bring Me To Life」だ。この曲は当時もラジオでかかりまくり、バンドは一躍スーパースターとなった。
アメリカのゴシック系ラウドロックバンドのエヴァネッセンスは、ダークで妖艶な魅力とオペラ的な歌声を武器とした女性ボーカル、エイミー・リーが率いるバンドで、2003年のデビューアルバム『フォールン』のリードトラックである「Bring Me To Life」が『デアデビル』の主題歌の一つに起用されて大ブレイク。12 Stonesというバンドのボーカル、ポール・マッコイがゲスト参加したこの曲は、ゴス系のダークなバッキングに、エイミーの艶麗で伸びやかな美声と、ポールのラップ調のシャウトが絡み合うセクシーでパワフルな一曲だ。
『デアデビル』の作風と最高にマッチするこの曲、当時の予告編映像の中で最も盛り上がるタイミングでもプレイされており、ヒーローやヴィランたちのアクロバティックなアクションを妖しくも臨場感たっぷりに盛り上げている。
当時のアクション映画ファンやロックファンはこの曲にすっかり耳を奪われ、同曲はその年のグラミー賞最優秀ハード・ロック・パフォーマンス賞や、ビルボード・ミュージック・アワード最優秀サウンドトラック・シングル賞もかっさらった。同曲を収録したデビューアルバム『フォールン』は全世界で1,500万枚を売り上げる大ヒット。日本でもゴールドディスクを獲得する話題っぷりであった(最近、日本の『和楽器バンド』とコラボレートした和風バージョンも最高にカッコいいので、当時のファンは必聴である)。
この曲は映画の劇中でも、復讐に燃えるエレクトラのトレーニングと、スーツ・アップするデアデビルのカットが交錯するシークエンスで象徴的に起用されている。男女のボーカルが交互するのに合わせて、デアデビル&エレクトロのカットがスイッチングする演出は、運命の戦いを劇的に仕上げてくれている。
もう一つの名曲「My Immortal」
「Bring Me To Life」を語ったのなら、ファンの間でも名場面とされる「雨の葬儀」シーンで聴こえるエヴァネッセンスのもう一つの名曲「My Immortal」も取り上げずにはいられない。
盲目のマット・マードックは、視覚の代わりに音波などで周囲の環境を見る能力「レーダーセンス」の持ち主で、降り注ぐ雨の音は、物の形状を立体的に把握するための重要な手助けとなる。ある時マードックは、エレクトラに降り注ぐ雨の音を“見”て、初めて彼女の容姿を知り、「なんて綺麗なんだ」と囁くロマンチックな夜を経験する。しかしその後、エレクトラは父がデアデビルによって殺害されたと勘違いすると、復讐の念に取り憑かれ、マードックとの愛を忘れてしまう。
エレクトラは父の葬儀でマードックと再会し、彼から「僕と一緒にいて欲しい」と告白されるも、心ここに在らず。そこに突然降り出した雨。マードックはあの夜を思い出し、レーダーセンスでエレクトラの表情を見ようとするのだが、彼女の姿が突如として闇に消えてしまう。なぜか?エレクトラが傘をさしたのだ。降りしきる雨の中、何も言わず立ち去るエレクトラ。そこで流れる「My Immortal」は、このオシャレで切ないシーンをエモーショナルに引き立ててくれている。
ロックの時代に
エヴァネッセンスばかりでなく、『デアデビル』が当時隆盛を極めていたロックジャンルを大々的にフィーチャーしていた点も、今振り返るとアツい。街中のノイズが聴こえてしまうマードックは、自室ではラウドロックをガンガンに鳴らしており、劇中ではシーザーの「Hang On」がプレイされている。また、不良バイカーたちがたむろする地下クラブで流れているのはニッケルバックの「Learn The Hard Way」だ。まぁ、それはどうなの?って選曲だが。
また、デアデビルとブルズアイが夜の路上で一騎討ちに挑むシーンでは、ドラウニング・プールがロブ・ゾンビを客演に迎えた「The Man Without Fear」がゴリゴリに流れ、エンドロールではフュエルの「Won’t Back Down」とザ・コーリングの「For You」が堂々と鳴り響く。
今となっては、『ブラックパンサー』(2018)や『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018)がそうであるように、ヒーローたちはラップやトラップ・ミュージックを好むようになった。しかし、まだロックバンドがトップチャートに重厚感をもたらしていた2000年代初頭にあって、『デアデビル』はラウド・ロックやオルタナティブ・ロックと悪魔的にクールな契りを交わしていたのだ。『デアデビル』鑑賞にあたっては、同時代以降アンプからどんどんプラグが引き抜かれていったバンドたちの、しかし、確かにあの頃はシーンの中央にいた彼らの、シビれるようなディストーションの残響も楽しんで欲しい。
黎明期ならでは?欠点もご愛敬
『デアデビル』には、当時も「うーん」と思いながら、やっぱり今観ても「うーん」と思うところはある。まず、ジェニファー・ガーナーが演じるヒロインのエレクトラとの出会いのシーンは苦笑モノである。
行きつけのカフェに現れた彼女にマットが“一目惚れ”するのは良いのだが、彼はそのまま彼女の後を付け(「ストーカーみたいなことすな」と当然ながら彼女にドン引かれる)、公園の子供たちが『ストリート・ファイターⅡ』のステージ背景みたいになってワイワイ応援する前で、なぜか2人は一戦交える。まあ、『ウエスト・サイド・ストーリー』で主人公カップルが出会いのダンスを共にしたように、これは彼らにとっての運命の出会いを表現する手段なのだろう。とは言え、良い年した初対面の男女が昼間の公園の遊具の上でハアハア言いながら腕を絡め合う姿は、やっぱりどう見ても滑稽だ。
それから、先に書いたコリン・ファレルのブルズアイの気味悪さもさることながら、ラスボスであるキングピンの肩透かし感もすごい。キングピンといえばNetflixのドラマ版ではヴィンセント・ドノフリオが演じた威圧感たっぷりの姿があまりにも印象的だが、映画版ではマイケル・クラーク・ダンカンが演じている(素晴らしい役者だったが、2012年に亡くなってしまった)。彼は確かにキングピンさながらの巨体の持ち主だが、『グリーンマイル』(1999)での心優しい囚人役のイメージがどうしても強く、本作での冷酷で極悪非道な役がなかなか結びつかない。まるで、ボブ・サップが無理してヒールを演じているのを見るみたいに。
しかも映画はブルズアイとの対決に時間を使い過ぎてしまい、キングピンの元にデアデビルがたどり着く頃には、映画の上映時間はもう20分を切っている。結局キングピンは、お股の間をツルツル滑り抜けるデアデビルに膝小僧を蹴られた痛みで「うーあーうー!」と5歳児みたいに泣き叫んで、なっさけない四つん這い姿で敗北を喫するという、あまりにもな結末を迎えてしまう。
本作は大胆にも、ブルズアイとキングピンという2人のヴィランを取り入れたのだが、複数ヴィランのスーパーヒーロー映画は得てして苦労するものなのである。『スパイダーマン3』(2007)『アメイジング・スパイダーマン2』(2014)ですら複数のヴィランの処理には翻弄されていたし、『デアデビル』はスーパーヒーロー映画黎明期の作品にしては少しばかり欲張り過ぎたかもしれない。
もっとも、こうした欠点は、今となってはジャンル黎明期の試行錯誤の結果として甘受できるものだ。むしろ、現在に通ずるような魅力を、よくぞ2003年にして捕らえていたものだと驚かされるし、こうした魅力が今まであまり表立って評価されてこなかったという現実にも驚かされる。この無骨で孤独なヒーローが、MCUが誕生するよりもずっと前に、闇に紛れて戦っていたという事実に、一体なぜこれまで盲目でいられたのだろうか。
というわけで、すっかり映画版『デアデビル』を鑑賞してみたくなったアナタ。今やマルチバースという最強便利設定を手に入れたMCUのことだから、将来ベン・アフレックのデアデビルが再登場してしまうという奇跡も、1%くらいの確率でありえるかもしれないわけだし、改めて本作を抑えておいても良いのでは。本記事時点で本作が配信で楽しめるのはAmazon PrimeとU-NEXTのみのようだ。こちらで配信されているのは、劇場公開版より30分長い(133分)ディレクターズ・カット版。既にディレクターズ・カットをやっているというのも、近年のDC映画を先駆けるようでカッコいい気がする?