【ネタバレ考察】『エターナルズ』の正義論 ─ 『スパイダーマン』『ダークナイト』、「どちらかしか救えない」時、ヒーローはどうしたか

マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)『エターナルズ』では、地球滅亡を目前に控えたエターナルズが、とある究極の選択を迫られることになる。
果たして彼らは、どのような倫理・道徳上の原理に基づいて決断を下すのか。この記事では、過去のアメコミ映画が「究極の選択」のジレンマをどのように描いてきたかを少しだけ振り返りつつ、『エターナルズ』をおさらいしてみよう。
MJかゴンドラか?どちらも選ばなかった『スパイダーマン』
2002年公開、現代スーパーヒーロー映画の始祖ともいえる『スパイダーマン』では、ヒーローが究極の決断を迫られる重要なシーンがある。悪役のグリーンゴブリンが、橋からMJと子供たち(と数名の大人)の乗ったモノレールのゴンドラを同時に落とす場面だ。
このクライマックスの場面でグリーンゴブリンは、たった1人の恋する人の命か、数十人の子どもが乗ったゴンドラか、どちらを救うか選べと迫る。無情なゴブリンは両手を離し、スパイダーマンの片目にはMJが、もう片方には子供たちが乗ったゴンドラが悲鳴と共に落下していく様子が映る。

スパイダーマンは、どちらを救いに行くべきなのだろうか。もしも彼が功利主義者※なら、MJを犠牲にしてゴンドラを助けに行くだろう。ゴンドラに乗っている命の方が多く、しかもその多くが未来ある子どものものだからである。
※功利主義……最大多数の最大幸福を第一とする考え方。
しかしスパイダーマンは、MJを救うという道徳的責務も負っている。愛する女性を見殺しにしないための行動を取るのだとすれば、スパイダーマンは道徳的な正しさを獲得する。
さて、ヒーローはどうしたか?この場面では、まず落下するMJに一直線に飛びついて、そのまま橋の反対側にスイングし、モノレールのワイヤーを掴んで「両方を救う」という結果に終わる。これは、どんな状況でも諦めないスパイダーマンの不屈の精神と、それを可能にする超人的な身体能力を証明する名シーンとなった。一方で、2002年のスーパーヒーロー映画は、まだ倫理・道徳的なジレンマに決断を下す準備ができていなかった、ということでもあるのだ。
一般市民か囚人か?両方が救われた『ダークナイト』
2008年の『ダークナイト』で、アメコミ映画は倫理・道徳のジレンマに再び直面する。
この映画のクライマックスで悪役ジョーカーは、罪のない一般市民と囚人がそれぞれ乗った2隻の船に爆弾を仕掛け、“実験”を行う。船は互いに起爆装置を持ち合っており、午前0時までに相手の船を爆破させるスイッチを押した方が助けられるというのだ。一刻も早く決断しなければ、相手の船に先にスイッチを押され、自分たちが死ぬという危険がある。人は誰しもが醜いと信じているジョーカーは、どちらの船が、いつ起爆装置を押すのかを楽しみに見物している。

船の乗客はパニックに陥る。一般市民側の乗客は、相手は囚人なのだから死ぬべきは彼らだと訴える者がいる中で、民主主義に賭けて多数決の投票制を採用する。一方で、しばらく経っても囚人側がスイッチを押していないという事実に気付く一般市民乗客もいる。
結局のところ、両船は同じ決断を下す。一般市民側は起爆装置を「押すべき」との回答が票多数となったが、誰も自分でスイッチを押そうとはしない。最終的に2隻とも代表者が名乗り出てスイッチを取り上げ、捨てる/仕舞うことで起爆を拒否し、さらには誰も意を唱えない。「どちらも起爆装置を押さない」という結果にジョーカーは驚くが、バットマンが彼の起爆装置を奪ったことで、2隻の乗客は両方が助かる。
『ダークナイト』ジョーカーの実験は、「一般市民」対「囚人」のうち、救われるべきはどちらかという見かけの構造を取りつつも、実際には「美徳」対「ジョーカー」の対決として帰結する。どちらかが起爆装置のスイッチを必ず押すだろうというジョーカーの見当は外れ、「人殺しになるのではなく、善人として死ぬことを選ぶ」という美徳が、ここでは勝利を収めるのだ。
ところでこの倫理の戦いに、映画の主役であるバットマンは参加していなかったということに注目しながら、いよいよ『エターナルズ』について考えたい。
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